樋口尚文の千夜千本 第97夜「アウトレイジ 最終章」(北野武監督)
ペキンパーとブレッソンが兄弟盃を交わしたら
北野武監督にまつわるインタビューや評論をぎっしり集めた『映画監督、北野武。』(フィルムアート社)という大著が出て、私もそこに北野武とやくざ映画について書いてほしいと請われて”超「ヤクザ映画」の涯てにあるもの”という論考を寄稿している。本書ではさる理由から「やくざ」を「ヤクザ」と表記統一しているが、『大辞泉』や私の著作『ロマンポルノと実録やくざ映画』では「やくざ」はあくまで平仮名である。野村秋介の侠客をめぐる文章にあってもそうである。でもあえてカタカナにこだわるというのは、シドニー・ポラックの『ザ・ヤクザ』みたいな響きが北野映画のやくざ者にはなじむということなのかな、とかいろいろ考えてみるのだが、さてどうなのだろう。ともあれ、この文章ではやっぱり「やくざ」にさせていただく。
さて北野武流やくざ映画『アウトレイジ』も第三弾、意外や乗れなかった御仁もいるようだが、私は全篇したたかに惹きつけられた。『アウトレイジ』三部作のなかでは、なんと小日向文世の悪徳デカが実質主役の前作『アウトレイジ ビヨンド』が一頭地を抜く面白さであったが、本作も裏社会のちゃちな権力関係が刻々と変化していくブラックなおかしさが魅力的で、その関係性がずれたり反転したりする過程がドラマのすべてをかたちづくっている。個々の人物の特徴的な人となりもぎゅっと印象的にふれられるのだが、何よりこの作品の軸は、個々の人物像ではなく、あまたの登場人物たちの関係性の変転にこそある。それゆえ、この作品にはちょっと鉱物的でソリッドな、そこらの日本映画とはまるで異質の味わいがある。
やくざ映画の物語の系譜には、戦前からの古式ゆかしい義理人情に縛られた任侠路線、戦後のどさくさから高度成長期を経てその旧来の絆の美学が壊れ、私利私欲と打算詭計が幅をきかせる実録やくざ路線に大別されるが、どう考えても『アウトレイジ』は後者の路線の極北、深作欣二やタランティーノが紡いできた流れの果てにある…という印象である(実際、東映実録路線の掉尾を飾る、いや呪う『北陸代理戦争』へのオマージュみたいなシーンもある)。だが、虚心に『アウトレイジ最終章』を観てみれば、ちょっとそういうことでもないような気がしてくるのである。
つまり『アウトレイジ最終章』では、まさに実録やくざ映画的なセコくてズルくてちゃちなやくざ社会の人物関係が描かれてはいるが、そこに翻弄される主人公・大友(ビートたけし)が、その日和見と打算の回路をシニカルな笑いとともにさまよう諧謔的人物とは思えず、むしろ逆に掟と義理に忍従を重ねてついに最後はドスをかざして爆発する任侠路線の主人公に近いのでは、とさえ思われてくるのである。
ただ図式的には任侠路線のようであっても、任侠路線を規定するエモーショナルな悲劇性は皆無で、『アウトレイジ最終章』にはどこか人物たちの内面が見えず、いつ何をしでかすかわからないような雰囲気が充満している。それはメルヴィル的な冷えたハードボイルド風味というよりも、もっと硬質で無表情なブレッソン的領域にある。今回はちょっとペキンパー?みたいな感じの山場もあるのだが、タッチとしてはブレッソンのように「非情」を通過して「酷薄」にして「無表情」な感じである。
言葉をかえれば東映の任侠路線はメロドラマとしての、実録路線はブラックコメディとしての、それぞれなりのカタルシスを提供することで娯楽商品になっていたわけだが、本作はその両者の要素を含みながらもとにかく通り一遍のカタルシスを排除している。そこがまさに「酷薄さ」を醸す理由なのだが、そんな次第でこれは「やくざ映画」という客思いでほどよいジャンルを逸脱した、独自の異物的作品なのである。