子どものスポーツと審判。全米を悩ませる審判不足問題。
長崎県で行われた高校のバスケットボールの試合で判定を不服とした延岡学園の選手が、試合中に審判員を殴打したという。
私は報道で知っただけで、詳細については分からないけれども、「審判を殴った」という言葉に、4年前の悪夢のような事件を思い出させた。
2014年夏、米国ミシガン州リボニア市で行われた成人リーグのサッカーの試合で、男性審判が殴り殺された。私の隣町で起こった事件で、殺された審判は、後になって、知り合いの知り合いだと分かった。
リボニア市のスポーツ施設の売店には、男性審判の遺族を支えるため、募金箱が設置されている。
試合中に審判を殴り殺すという事件の後も、審判を取り巻く米国スポーツ界の環境は改善されていない。それどころか悪くなっているのではないかとさえ思う。
ここのところ、「子どものスポーツの審判員が足りない」、「高校スポーツの審判員が足りない」という報道を頻繁に目にするようになったからだ。
3月16日の「ザ・ステート」電子版では、特集記事として大きく扱われた。記事ではサウスカロライナ州で、子どもの競技スポーツの審判をする人が少なくなってきていると伝えている。
サウスカロライナの審判協会によると、新しくサッカーの審判になった人のうち、70%が次年度は続けないとしている。バスケットボールでは、およそ20%が次年度の審判はやらないという。
米国の子どものスポーツの審判は、中学生や高校生が審判をしていることが少なくない。中高生は審判資格を取得し、大人の主審と組んで、審判をしているのだ。サウスカロライナでも、少額の審判報酬が出ることから、中高生はお小遣い稼ぎも兼ねて、審判をしている。そのため、新しく審判講習を受ける生徒や学生はいて、1シーズンは審判をするのだが、次のシーズンも審判を希望する人たちが減っているというのである。
ワシントンポスト紙には、ワシントンDC地区で審判が不足という記事が掲載された。イリノイ州のテレビ局でも、子どものスポーツの審判不足が深刻だと伝え、「審判をすることに興味のある人は連絡をください」と呼び掛けてもいた。
2018年5月には、ミシガン州の高校運動部を統括する協会が、10年ほど前まで1万2000人いた審判が、20%減り、1万人ほどになっていることを、地元のテレビ局が伝えた。ウィスコンシン州でも同様で、米NBCの系列局は「全米の審判不足がウィスコンシンでも起こっている」と伝えた。
各州の運動部統括協会が加盟するNFHSでも、審判をやり初めた人が継続せずにやめていく現状を把握している。
審判不足に共通する主な理由は、観客席にいる保護者やファン、指導者や選手から暴言を浴びたり、身の安全が脅かされたりすることだという。また、審判の報酬が少ないことも一因で、金額に見合わぬストレスだと感じる人もいるそうだ。ミスジャッジだとしてSNSに動画を投稿されることも重圧になっているらしい。
殺人事件には至っていないが、試合後に審判控室に押しかけられたり、襟首をつかまれたりといったことは少なからぬ数の審判が経験している。保護者が、我が子の試合をジャッジした中高生の若い審判に詰め寄り、暴言を吐く。大人に罵られることは若い審判には恐怖でしかないだろう。私も、ここに挙げた状況と似たようなシーンを見かけたことは何度かある。
近代スポーツが生まれたころ、今のような審判システムはなかった。
『スポーツ・ルール学への序章』(中村敏雄著、大修館書店)には、このように書かれている。
ラグビー校は、ラグビー発祥の地。ルール違反と思われるときはキャプテンかそれに代わる代理人が話し合っていて、時にはコインの表裏によって決めていた。米国でも、野球が生まれたころには、球審しかいなかった。
選手による自己申告制が後退していった理由を、中村は勝利至上主義が商業主義と手を結んで浸透したからだ、としている。
勝利至上主義が第3者である審判の権力強化につながったのなら、今の米国の高校スポーツや子どものスポーツは、指導者や選手だけでなく、親も勝利至上主義の片棒を担ぎ、審判の意欲を大きく削ぐところまできてしまってように見える。
審判が不足しているからといって、選手の自己申告、自己統治で試合を進めることは、とても難しい。サウスカロライナでは、稀に審判を手配できないこともあり、その時には、試合が中止になるという。
審判がいなければ、今、公式戦は成立しない。
今回、審判を殴打した高校生には教育的配慮のうえ、適切な懲戒を課して欲しいと思う。また、報道によるとこの選手は、留学生だったそうだが、この事件が、留学生や留学生の排除につながらないようにと切に願う。