111年前の銚子から鹿嶋沖での漁船遭難からジェット気流を発見した高層気象台設置へ
111年前の海難
今から111年前の明治43年(1910年)3月12日、千葉県銚子沖から茨城県鹿嶋沖では出漁中の漁船100隻以上が暴風で遭難し、900人以上が死亡しています。
また、山陰沖でも漁船が暴風で遭難し、41名が死亡しています。
当時の中央気象台の天気図を見ると、3月12日6時の天気図には日本海と銚子沖には発達中の低気圧があります(図1)。
しかし、8時間前の3月11日22時、16時間前の3月11日14時の天気図には、日本海には発達した低気圧がありますが、太平洋側には低気圧がありません。
陸上のまばらな観測しかなく、日本海の低気圧による大荒れは予想できた可能性はあっても、関東近海の低気圧による大荒れは前もって予想できなかったと思われます。
利根川河口の銚子付近は、潮流が複雑で、昔から船の難所として有名でした。
このため、明治19年(1886年)9月1日という、かなり早い段階で銚子測候所(現在の銚子地方気象台)が設立されています。
高層気象台の設立
高層の気象を観測することで天気予報の精度が上がるのではないかということは早くから指摘され、山岳での観測が行われていました。
また、海難が発生した明治43年(1910年)当時、ヨーロッパやアメリカでは、凧や気球をあげて観測する試みが始まっていました。
このため、銚子沖の海難などをうけ、高層気象観測を実施して予報精度を上げるべきという議論が加速しています。
例えば、この年の冬に、長野県選出の衆議院議員・渡辺千冬は国会に高層気象観測所設立を建議しています。
中央気象台も、大石和三郎が中心となって準備が進められました。
大石和三郎は、明治44年(1911年)に渡欧し、リンデンベルグ(ドイツ)、トラップ(フランス)、ビルトンヒル(イギリス)、ブルーヒル(アメリカ)等の諸設備を見学しています。
しかし、地上観測に比べ、高層気象観測設備は極めて高額であったため、予算要求はなかなか認められませんでした。
茨城県小野川村館野(現在のつくば市)の地に高層気象台の設立が決まったのは、第一次世界大戦が始まり、そして終わり、日本が第一次世界大戦後の好景気になった大正8年(1919年)7月になっていました(観測開始は翌年)。
高層気象台の初代所長は大石和三郎でした。
ジェット気流の発見者
大正から昭和初期の高層風の観測は、水素を詰めた気球を飛ばして、その軌跡を基準となる石の台座の上に固定した経緯儀で追跡して風速を求めるという方法でした。
現在、石の台座の上には、銅製のプレートが置かれています(図2)。
プレートに書かれた英文の最初の単語をPioneering と現在分詞にしてあるのは、過去の栄光だけでなく、我々は現在もその心意気を持って仕事をしているということの表明です。
太平洋戦争中の昭和19年(1944年)、空襲のため日本に向かっていたB29爆撃機は、日本上空で非常に強い風にたびたび遭遇します。これまでの常識では考えられないほどの強い風で、ジェット気流と名づけ、研究が進められました。
このため、長い間ジェット気流は、「B29爆撃機による日本爆撃の際に発見された」と言われていました。
しかし、日本軍は大石和三郎等によって発見された強い風の存在を知っており、この強風に風船爆弾を運ばせアメリカ本土の爆撃を計画・実行していました。
ジェット気流はB29爆撃機が発見したのではないのです。
時は流れ、平成15年(2003年)、アメリカのJ.M.ルイス(John M. Lewis)が、世界中から多くの資料を集めて大掛かりな調査を行い、日本語で書かれた報告を引用するなどして、ジェット気流の最初の発見者は日本の大石和三郎であると、アメリカ気象学会の機関誌に発表しています。
図1の出典:国立情報学研究所のホームページ(デジタル台風)。
図2の出典:饒村曜(2014)、天気と気象100、オーム社。