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長宗我部元親はついに徳川家康の援軍に来なかった! 羽柴秀吉の逆襲

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今回の「どうする家康」では、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉の和睦が模索されていた。家康と信雄は一度は秀吉に勝ったものの、秀吉は着々と逆襲の機会をうかがっていたので、その辺りを見ることにしよう。

 天正12年(1584)4月、家康・信雄は秀吉との戦いに勝利した。しかし、秀吉は反撃の機会をうかがっており、戦いが再開されたのは5月以降のことである。

 秀吉軍は5月1日に小牧に入ると、3日に竹ヶ鼻、祖父江(いずれも岐阜県羽島市)に放火をし、加賀野井城(岐阜県羽島市)を攻撃した。秀吉は「敵の首50~60を討ち取り、落城もほど近」いと配下の木下重堅に伝えた(「池田文書」)。5月6日、加賀野井城は落城した(『家忠日記』)。

 今度は逆に、家康方が対応に迫られた。5月7日、信雄は竹ヶ鼻城主の不破広綱に書状を送り、加賀野井城の後詰が遅れて落城したこと、竹ヶ鼻城が敵に攻囲されたときは救援に馳せ参じることを伝えた(「不破文書」)。

 それは吉村氏に対しても同じで、寺西氏を加勢として遣わし、鉄砲の玉薬を送ることを約束した。その後、信雄は吉村氏に対して、松ノ木城(岐阜県海津市)が敵に攻囲されるまで援軍を送らないと通達した(以上、「吉村文書」)。

 不破広綱は、美濃の土岐氏、斎藤氏に仕えた竹ヶ鼻城主・綱村の子である。土岐氏、斎藤氏の滅亡後、綱村は織田信長の配下に加わり、信長の没後は子の信雄に仕えた。

 小牧・長久手の戦いが近づくと、広綱は信雄・家康方につくか、秀吉方に与するかを家中で議論し、最終的に信雄・家康方へ味方することを決断した。

 5月7日、信雄配下の織田信張は土佐の香宗我部親泰に書状を送り、有利な戦況を伝えるとともに、摂津、播磨に出兵してほしいと依頼した(「香宗我部文書」)。

 1週間後の5月14日、家康も家臣を通して香宗我部親泰に書状を送り、長宗我部氏の出兵を重ねて要請した(「土佐国蠧簡集」)。信雄と家康は土佐の長宗我部氏に出兵を要請し、畿内から秀吉方を撹乱しようとしたのである。

 かねて元親は信長と敵対しており、秀吉が後継者として君臨して以降も、従順な態度を示さなかった。むしろ、秀吉に敵対心をあらわにしていた。それは、その後の四国征伐へとつながる。

 家康と信雄は、そんな元親ならきっと味方になってくれるに違いないと考えたが、ついに元親は挙兵することがなかった。これは、大きな誤算だったに違いない。

 5月24日になると、事態はさらに緊迫する。不破広綱の竹ヶ鼻城が秀吉軍に攻囲されていたが、なかなか援軍が来なかった。その心中は、穏やかでなかっただろう。

 家康は広綱に書状を送り、後詰をすることを約束し、近日中に関東(北条氏)の軍勢が来援すると報告した。後詰とは、籠城している敵軍の周囲を囲み、救援することである。

 翌5月25日、家康は再び広綱に書状を送り、後詰を約束するとともに、関東(北条氏)からの援軍が来るまで持ちこたえるよう伝えた(以上、「譜牒余録」)。

 5月26日には、信雄も家臣を通して広綱に書状を送り、後詰を約束した(「不破文書」)。竹ヶ鼻城は落城寸前だったが、約束した家康の援軍はやってこなかったのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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