【仙石秀久】兵なし城なし名誉なし!目指すは「太閤殿下への罪ほろぼし」不可能を可能にした奇跡の戦国武将
豊臣秀吉のもと英雄となれるはずが、“やらかし”によってすべてを失ってしまった武将・仙石秀久(せんごく・ひでひさ)。
彼の身に何が起こったのか?その詳細を伝える前編については、まだご覧になっていない方は、ぜひ以下の記事を先にお読みください。
プライドが粉砕された豊臣家
豊臣家VS島津家。初戦の大一番ともいえる“戸次川(へつぎがわ)の戦い”は、仙石秀久の先走りにより、豊臣軍の完全敗北に終わってしまいました。
しかし秀吉としては威信にかけ、このまま引き下がるわけには行きません。総勢20万を超す大軍に、歴戦の猛将・智将を引きつれ、九州へなだれ込みます。
そして激戦の末に、ついに島津家に降伏を宣言させるに至りました。ただ敵対はしたものの、秀吉は島津家の並外れた力量を、大いに認めました。
さすがに九州全域の統治は認めませんでしたが、もともとの薩摩を中心とした領地は安堵。以後、両家はむしろ距離を縮めて行く関係となって行きます。
さて、九州征伐の達成直後。秀吉陣営は、お祝いムードに包まれますが・・
秀吉「皆のもの、こたびは本当によく働いてくれた。祝着至極じゃ!」
家臣「申し上げます。仙石秀久様の使者が、太閤殿下への謁見を願い出ておられまする。」
とたんに、秀吉の顔色は一変しました。
秀吉「・・追い返せ。顔も見とうない!!」
家臣「お、おそれながら申し上げます。秀久様は、腹をお召しになるお覚悟にて。せめてその前に、太閤殿下にお詫びせねば、死んでも死に切れぬと・・。」
秀吉「くどい。あやつの領地は全て没収じゃ。家族ともども高野山へ追放といたす。後は切腹でも何でも、好きにすれば良いわ!!」
家臣「は・・ははっ!」
九州平定の後も、秀吉の怒りは収まってはいませんでした。ただ、信長に仕えていた時代から、仙石秀久が身を粉にして貢献してきたのも事実。死罪を言い渡さなかったのは、秀吉なりの最後の情けだったのかも知れません。
地位も名誉も奈落の底へ
とはいえ彼の武士としての名誉は、もはや死んだも同然となってしまいました。秀久は、家族のことを思いました。
仙石「自分だけなら、まだ良い。じゃがワシの妻や子というだけで、末代まで笑いものとなっては、あまりにも不憫」。
彼は妻の本陽院(ほんよういん)に、離婚して新たな人生を歩んで欲しいと、申し出ました。しかし・・
本陽院「例えすべての人間が笑おうと、私はあなたを信じまする。武士として、再び手柄を立てられませ」。
彼女はこれまで勇敢に闘い、主君に尽くしてきた姿を、だれよりも見知っていたのでした。仙石秀久という男は、ここで終わる器ではない。また立ち上がれる可能性を信じ、激励したのでした。
仙石秀久は涙をながして、こう思いました。
仙石「かようなワシをまだ信じるというか。すまぬ、こうなればせめて、どれほど無様であろうとも最後の最後まで、あがいて見せよう。」
舞い込む最後の大一番
妻の想いに、ふたたび心に灯のついた仙石秀久。とはいえ追放の地で身1つでは、現実的にできる事は何もありません。そんな折、あるウワサ話が彼の耳に入りました。
農民A「おい、また大きな戦が起こるらしいぞ。なんでも小田原の北条が、太閤殿下に逆らったらしい」
農民B「まさか、いまの豊臣家に勝てるはずがねえ。北条はなに考えているのかねえ」
農民A「いやいや、それが。北条の領地には大小100を超す城がある。おまけに本拠地の小田原城は難攻不落と言うぞ」
農民B「なるほど、それらをぜんぶ落とそうなんざ、豊臣家でも簡単じゃねえってわけだな。」
それを聞いて、仙石秀久は考えました。
仙石「そうじゃ、ワシも何とかして北条攻めに加わるのだ!今いちど太閤殿下のお役に立てるやもしれぬ。」
しかし仙石秀久にはかつてのように、何千もの兵はいません。そのうえ豊臣軍には上杉、真田、徳川、毛利など、大軍を率いた名立たる武将が、集結するのです。そんな中で、どれほどの働きが出来るというのでしょうか。
“いま自分にできる事はなにか?”彼は寝ても覚めても、そればかり思案する日々を送りました。
徳川家康との再会
ついに北条氏と豊臣家の戦いが開始されると、秀吉軍に属する徳川家康のもとに、仙石秀久が訪ねてきました。
仙石「家康殿、恥を忍んでお頼み申す!なにとぞ、われらを徳川勢の末席にお加え下され。必ず、お役にたってご覧に入れまする」
追放の身では、ちょくせつ秀吉のもとへ駆けつけても、参陣は許可されません。そこで面識のある家康へ、頼み込むことにしたのです。
ちなみに、さすがに1人では限界があり、馳せ参じる途中に故郷の美濃で、旧知の20人ほどを仲間に加え、駆けつけていました。
家康「よう参られた仙石殿。さぞ歯がゆい想いをされてきた事であろう!承知いたした。しかし申し訳ないが、わが軍勢をお貸しすることは出来ませぬぞ」。
仙石「もちろんにございまする。われら一手で必ずや、合戦のお役に立ってご覧にいれまする!」
・・さて、このとき仙石秀久は、いま秀吉の一番の望みは何か?そのことを、考え抜いていました。その結論は、集まった諸将に本気で闘って欲しいという事実です。
どの武将も、手柄を立てれば恩賞が期待できます。とはいえ大半が、北条家に恨みがあるわけでもなく、できれば被害を抑えたいのも本音です。
いかに大軍でも尻込みをして戦いが長引けば、食糧や兵の士気に、ほころびが生じかねません。
また北条氏も事前に、強力な防衛線を構築していました。まずは領土の西側、伊豆の山中城を強化・改築した上で、約4千の兵で防御を固めていたのです。
戦端が開かれると、豊臣側は徳川家康の軍を筆頭に、約7万でこれを包囲。しかし攻城戦がはじまると、徳川勢の前線では、ある驚きが広がっていました。
徳川兵「お、おい!何じゃ、あの武者たちは?」
“鈴鳴り武者”参上!
シャンシャン、シャラン!
そこには全身の鎧の、いたるところに“鈴”を着けた、仙石秀久ら20騎の姿がありました。カラダを動かすたびに、カチャカチャ、シャンシャンと音が鳴り、とにかく目立ちます。そして仙石秀久は味方へ向かって叫びました。
仙石「これより我ら、一番槍にて攻め入りまする!敵の注意を一手に引き受けますゆえ、我らに続かれませ!!」
そう言うと本当にわずかな人数で、城へ突進して行きました。城兵は、弓や鉄砲を雨あられと浴びせますが、彼らはまったく怯む様子がありません。
仙石「いまのワシに恐れるものなど、何もない!さあ北条の者ども、出会え候えー!」彼らの覚悟を決めた突進は、攻め手の前線に火をつけました。
徳川兵「あの勇敢な、鈴の武者を見殺しにするな!われらも続くぞ!」
一部が動けば、全体に波及。城を囲む大軍勢が一気に動き出しました。北条兵も果敢に抵抗して激戦となりますが、7万の軍に団結されてはたまりません。
山中城はあっという間に陥落し、その勢いで豊臣勢は、北条家の防衛線を次々と突破して行きました。
そうして迫った本拠地の小田原城。しかし、これは戦国時代でも3本の指に入る、難攻不落の名城です。そのうえ立て籠もる北条勢は、一説によれば5万にも迫ると言い、うかつに手出しはできません。
しかし、この最前線にもまた、仙石秀久らが姿を現しました。このとき彼は、すっかり武将たちの間でウワサとなり、その出で立ちから『鈴鳴り武者』と呼ばれていました。
仙石秀久はここでも、最前線に立って叫びます。
「われこそは太閤殿下が家臣、仙石秀久!一番槍にて攻め入りますゆえ、我らに続かれませ!」
その気迫はまたも波及し、彼に続いた豊臣勢は、わずかな人数で小田原城の西の玄関口を占拠したのです。全軍の士気は、大いにあがりました。
天下統一を果たした豊臣秀吉
・・さて、北条氏がいちばん望む展開としては、敵が城攻めに疲れ、自壊するシナリオでした。そうして乱れた敵軍に対し、支城の援軍や忍者を使って、補給路などを寸断。
この北条氏の必勝パターンの前に、今までどんな戦国大名も、小田原城の攻略を断念してきたのです。
それだけに、秀吉は自軍の結束を強く望んでいました。
結果として仙石らの後押しもあり、豊臣方は士気も補給も万全の状態で、小田原城を包囲し続けました。逆に北条家は、反撃の要である100を越す支城も、ことごとく陥落。
1590年7月。ついに勝ち目なしと悟った北条軍は、降伏を宣言。ここに豊臣秀吉の天下統一が、達成されたのでした。
仙石秀久は思いました。「やはり太閤殿下は、偉大なお方じゃった。ともに喜べぬは口惜しいが、何とも嬉しきことじゃ」
勝利の立役者
仙石秀久が戦勝の感慨にふけっていると、ふと徳川家康から声をかけられました。
家康「おお、こちらにおられたか。太閤殿下が貴殿をお呼びですぞ」
なんと勝ち戦の祝宴に、彼を名指しで招待しているというのです。彼は急ぎ、言われた場所に駆けつけました。すると・・
秀吉「おお、皆のもの!鈴鳴り武者が参ったぞ。この宴、勝利の立役者がいなくてはな」。
仙石「め、滅相もございませぬ。この秀久、せめてもの罪滅ぼしができればと!」
秀吉「良い。・・すでにこれまで、さぞや苦しき想いをしてきたであろう」
3年前、諸将の手前もあり、激怒した秀吉の感情は本物でした。一方で、自身に命がけで尽くしてくれた仙石秀久に、情けや挽回の機会を与えたい・・そんな想いも、強かったのかも知れません。
秀吉「名立たる武将を前にして先陣の覚悟を見せたは、じつにあっぱれ!まさに、まことの“もののふ”ここにありじゃ。そなたには信濃の国、小諸の領地を与える!」
仙石「ははっ!感謝の極み、全身全霊でお受けいたしまする!」
・・かくして、いちど何もかも失った仙石秀久は、ふたたび一国一城の主へと、返り咲きました。
絶望を乗り越え“三国一の臆病者”から”武士のかがみ”へと、日本中の見る目も、くつがえったのです。
大失敗をしたから分かること
・・それから時はながれ、豊臣秀吉が死去したのち。仙石秀久は小田原攻めでの縁もあり、徳川秀忠に仕えていました。
しかし天下分け目の関ケ原の合戦。秀忠は3万8千という大軍を預かりながら、信州で真田家のワナにかかり、合戦に間に合いませんでした。
結果として徳川が勝利したものの、家康の怒りは収まりません。このとき仙石秀久は、主の失態を許してもらうべく、必死に弁明したと伝わります。
仙石「おそれながら!この秀久めも、かつては大失態を犯し、大恥をかきました。左様な経験あればこそ、人の痛みが分かると思うておりまする。
これより天下泰平の世となれば、武力よりも、戦に疲れた人々の心に寄り添う・・さような為政者こそ、求められましょう!そのお方こそ、秀忠様をおいてほかに無しと、確信しておりまする!!」
・・そうした訴えも功を奏してか、やがて徳川秀忠は江戸幕府の、2代将軍に就任。主君にまごころを尽くす仙石秀久は、厚く信頼を得たと言います。そして仙石家は本領とは別に、子が旗本に任命されて領地を与えられるなど、徳川家に重用されました。
鈴鳴り武者からのメッセージ
さて、数いる歴史人物の中でも、異色の運命をたどった仙石秀久。その人生は、今を生きる私たちにも、大切なことを教えてくれます。
「人生は諦めなければ、道は拓ける」・・と、それだけではどこか月並みですが、大切なのは勢いだけでなく、そのために知恵を絞ったことかも知れません。
彼はどん底の最中にあっても冷静に情勢を読み、秀吉の欲していることを追究し、何十万と言う軍勢の前で最大限のアピールをしました。
「逆転だ!」「とにかくやるぞ!!」という精神も必要ですが、それだけでは恐らく関東で玉砕し、終わっていた可能性も高いでしょう。
具体的には、どうやってそれを成すのか?冷静に知恵を絞り、その上であきらめなければ、奈落の底からでも逆転は可能なのだと、大切な教訓を与えてくれている気がします。