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【戦国大名】まさかの“やらかし”で秀吉の逆鱗に!すべてを失いつつも奇跡の返り咲きを目指した武将の物語

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

数いる歴史人物。そのなかでも英雄と言えば、一介の身分から一国一城の主となったり、圧倒的な敵勢に逆転勝利など、そうした人物が注目されがちです。

しかし「このまま歴史に名を残す!」・・はずが、人生なにがあるか分かりません。

この記事では戦国時代に豊臣家へ仕え、まだ秀吉が大きく名を馳せていなかった頃からの家臣“仙石秀久(せんごく・ひでひさ)”という人物を、物語風にしてお伝えしたいと思います。

彼はいくつもの死闘を生き延び、武勲をかさねて手柄を立てました。秀吉もそんな彼を信頼し、また家臣の中でもひと際お気に入りとして、一国一城の主に昇進させます。

天下を目指しながら滅ぼされた戦国大名も多い中、彼の場合は仕えた主君も大正解。武将として大成功のはずが、とある“やらかし”で奈落の底へ落ちてしまいます。

しかし、そこから先が本番とも言える、驚愕の人生を歩んだ人物です。

彼は、いったい何をしてしまったのでしょうか?そして、そこからどのような運命を辿って行ったのでしょうか。

運命の九州征伐

ときは1587年。“小牧長久手の戦い”の後、豊臣秀吉は徳川家康を丸め込み、みずからの家臣とする策略に成功。いよいよ天下統一に王手をかけました。

そんな彼に弓を引く可能性があるとすれば、九州を統一しつつあった島津家。あるいは関東に大勢力を築いていた、北条家という情勢になっていました。

また他にも伊達家など、いちおう従う素振りは見せつつも、状況次第では天下取りの野望を燃やす大名もいるため、秀吉としては「これからは豊臣の世」なのだと、知らしめたいタイミングでした。

そこで、まずは九州の諸大名に向けて、こう呼びかけました。

「すべての大名は争いを止めるのじゃ。みな仲ようせねばのう。」

ところが島津家にとってみれば、苦労して「ここまで勢力を広げたのに、突然しゃしゃり出てきて、何を言っている」という話です。秀吉の要求は無視、九州における最後の抵抗勢力となっていた、大友家を潰しにかかりました。

しかし、それも秀吉にとっては想定の範囲内。これで九州征伐の大義名分が出来たというものです。秀吉は仙石秀久に、こう命じました。

秀吉「そなたは、わが軍勢の先鋒として出陣せよ。また手柄を立てて参れ。」

しかし、ひとつ釘を刺して言いました。

秀吉「よいか、島津は手強い。うかつに手出しはならぬぞ。そなたらは、まず大友家の城が落ちぬよう牽制せよ。そして、わしら本軍の到着を待て。」

仙石「ははっ!」

このとき島津家は、大友家の鶴ヶ城を攻めていました。仙石秀久は今でいう香川県を治めていましたが、まずは四国から秀吉に先んじて、戦場へ急行。

いかに島津勢といえど、背後に敵が陣を敷いては、うかつに城攻めは出来ません。そうして大友を守っている間に、秀吉率いる大軍が到着。一気に、九州全土の制圧に乗り出す算段でした。

また仙石秀久には四国の覇者、長曾我部(ちょうそかべ)家などの軍も合流。そうして、約6千の軍を率いて九州へ上陸。

鶴ヶ城を攻める島津軍、約1万2千に対して、川を挟んで対峙しました。

さて、そうして着陣した数日後、四国の豊臣軍は軍略会議を開きますが、とつじょ仙石秀久が、こんな方針を宣言します。

仙石「これより我ら、島津の陣へ攻め入りまする。みな、われらに続かれませ!」

しかし長曽我部を始め、その場の諸将は驚愕して言います。

「またれよ。太閤殿下は島津を牽制せよと、仰せではなかったか?さように勝手な真似は、できませぬぞ」

しかし仙石秀久は言いました。

仙石「お言葉ながら、一門の武将たるもの、言われたことのみ行う様では、出世できませぬ。太閤殿下も、かつては信長公の期待以上の成果を上げ、特別に目をかけられたのでございますぞ。」

本人も一介の武士から、一国一城の主に昇りつめた身です。その言葉には説得力がありました。それに、これから天下人になる秀吉を喜ばせれば、その治世の世で一族も安泰です。

仙石「島津勢はわれらより大軍。だからこそ、こちらから攻めるとは夢にも思わず、虚を突けましょう。小勢で大軍を破ったとあれば、武士の誉れ。我らの名は後世にまで、語り継がれましょうぞ!」

こうして世にいう“戸次川(へつぎがわ)の戦い”。その火蓋が切って落とされました。四国の豊臣軍は川を渡り、島津軍を背後から襲撃しました。

仙石「太閤殿下の手は煩わせぬ。われらで島津を討ち取るのじゃ!」

勇猛で名高い島津勢は、果敢に抵抗してきましたが、徐々に押され始めて退却を始めます。しかし、そのとき島津の本陣では・・。

伝令兵「島津家久さま、申し上げます。敵勢、次々と川を渡り、我が軍勢が押されておりまする。」

しかし、周囲の兵も含めてまったく動揺は見られません。それどころか・・。

家久「はっは、よかよか!予想通りじゃ。われら歴戦の島津を出し抜こうなぞ、100年はやかぞ」

押されて後退したのは、じつはワナでした。深入りした四国の豊臣勢はたちまち、待ち伏せしていた島津軍に、四方をとり囲まれます。

仙石「し・・しまった、奇襲を読まれていたか。引け、引けー!」

しかし時すでに遅し。仙石秀久も長曽我部軍も、戦国の世を生き抜いた猛者ぞろいでしたが、島津はさらに一枚上手でした。

四国の豊臣勢はズタズタとなり、もはや戦いではなく、一方的に狩られるような戦況になってしまいました。

「きええぇぇーい!」「チェストォォーー!」仙石秀久へ鬼神のような島津兵が迫ります。もはや軍の指揮も何もなく、彼はとにかく必死で逃走しました。

そして戦場は脱出できたものの、島津兵の凄まじさは完全なトラウマとなってしまいました。どこまで行っても、今にも追っ手が現れるのではないかと恐ろしく、ついには海を渡り、自分の領地まで逃げ帰ってしまいました。

また、この戦いでは長曾我部家の当主、信親をはじめ多くの武将が討ち死に。そのまま鶴ヶ城も陥落し、合戦は島津家の完全勝利に終わりました。

さて、この結果は秀吉にとって、ただ局地戦の敗北というだけに留まりません。何しろ、これから豊臣家の威光を、全国へ知らしめたかったタイミングです。中には、こんな事をウワサする武将も現れました。

「このまま天下は、秀吉色に染まると思うていたが、なんの。島津はやりおる」

「それに引き換え・・仙石などは、はるばる領地に逃げ帰ったと言うではないか。」

「武士として、この醜態はないのう。ワシなら生きておめおめとは帰れぬ。討ち死にの方が、まだ名誉だのう。」

このウワサは全国に広まり、仙石秀久は“三国一の臆病者”というあだ名が、つけられてしまいました。

秀吉の喜ぶ顔が見たいとやった行動が、その真逆。狙ってやっても、ここまでは難しいというレベルで、そのプライドをズタズタにしてしまったのです。

何より「島津を牽制せよ」という意向を無視しての、完全敗北。挙げ句の果てには、指示をしていないのに、四国へ退却。当然ながら、秀吉は激怒しました。

秀吉「せ、仙石・・秀久!よ、よ、よくもワシの顔に、泥をぬりおったな!!」

なんとか命は助かった秀久ですが、これから受ける罰の重さは計り知れません。

何より、武士として築き上げた名誉は死んだに等しく、はたして挽回の余地など、あるのでしょうか?

少し長くなりましたので、彼がたどった運命と、その後の驚愕の人生については、後半の記事をご覧ください。

≫兵なし城なし名誉なし!目指すは「太閤殿下への罪ほろぼし」

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』

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