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[プロ野球] 中田賢一投手引退表明で思い出した、北九州市立大時代のこと

楊順行スポーツライター
中日時代の中田賢一(写真:ロイター/アフロ)

 中日では、ルーキーイヤーの2005年から先発として活躍し、荒れ球ながら相手を力でねじ伏せる投球は、当時の落合博満監督が「暴れ馬」と評した。その中日時代には3度のリーグ制覇、日本一も経験し、14年に移籍したソフトバンクでも、リーグ優勝を3回、日本一には5回輝いた。

 中田賢一。取材したのは04年3月、北九州市立大時代のことだ。

 福岡・八幡高時代は2年秋からエースとなったが、3年春の県北部大会ベスト8が最高成績で、球速は130キロそこそことまあ、パッとしない。だが01年、北九州市立大に進むと、「腕がよく振れる投手」と抜擢され、1年春のリーグ戦からマウンドに立った。秋には早くも2勝。そして、その冬の過酷な練習を経て急成長を遂げる。12月から4月まで週に4回、400球の投げ込み。100メートルダッシュを20本、10キロのランニングと、徹底して体をいじめぬいた。

 すると2年春、秋と連続で九州六大学リーグのベストナインを獲得し、3年時にはMax150kmと急成長。フォーク、チェンジアップもマスターし、九州国際大、福岡大の2強が圧倒的に強いリーグで、3年までに通算17勝を稼いだ。そのころの中田は、

「なぜこれだけスピードがアップしたのか……わかりませんが、先輩にピッチングを教わったり、先輩たちに必死についていくことで、体が強くなったのかもしれません」

 と語っている。

タフネス右腕の土台を築いた

 当時は、同じ北九州市内でも八幡西区在住だったため、小倉南区にあるキャンパスまでは通学に1時間ほどかかる。練習終了後は6時から夜間部の授業を受け、自宅に戻ると軽く10時を回る。蓄積する疲労のためか、3年秋には右足内転筋を痛めた。医者に行くと、肩にもちょっと異常が見つかり、どうせなら……と足、肩のリハビリに励んだ。そのため、3年秋のリーグは途中で戦線離脱したが、その分、冬場に徹底したトレーニングをみ、体重は6キロ増。これが、のちにプロで発揮するタフネスぶりの土台になったかもしれない。中田はこう語った。

「僕が自己最多の5勝(3年春)を超えれば、優勝も見えてくるでしょう。こんなチームもあるんだということをアピールするためにも、神宮へ行って勝ちたいですね」

 そうして迎えた4年春のリーグで、中田は言葉どおり6勝を記録した。優勝決定戦では、第1試合を9回完投で勝利すると、45分の休憩後に行われた第2試合も延長11回を完投しサヨナラ勝ち。チームは39年ぶりのリーグ優勝を果たし、計310球を投げ抜いた中田は最多勝、特別賞(リーグ通算300奪三振)、ベストナイン、MVPを獲得した。大学選手権でも初戦、創価大戦で白星を記録している。4年秋も、久留米大を相手にノーヒットノーランを達成。そして中日にドラフト2位で指名され、プロ入りするわけだ。

 あれから17年。お疲れさまでした。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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