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「君が代」をめぐって広島の県立高校で起きたこと──「義務化」して誰が幸せになったのか?

松谷創一郎ジャーナリスト
(写真:ロイター/アフロ)

今年も8月6日が近づいてきた。広島市出身の筆者にとって、それは一言で形容することはできない複雑な日である。それは広島が極めて政治的な街であり、若いときからそれに接していたからだ。自分自身の経験をもとにした広島の政治性について書いた7年前の記事を再掲する(初出:朝日新聞社『論座』2016年4月4日/一部加筆・修正)。

2004年の園遊会

 2004年10月28日、恒例の園遊会はちょっとしたことで注目された。

 当時、東京都の教育委員を務めていた棋士の米長邦雄氏が、天皇に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と述べた。注目が集まったのは、それに対する天皇の言葉である。

「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」

 この言葉は、静かに大きな波紋を及ぼした。

 それまで天皇を信奉していた右派の多くは、その後天皇の存在を前面に押し出すことをやめた。対して、天皇制を問題視していた左派の多くは、その言葉に困惑した――。

入学式の異様な光景

 1990年(平成2年)、新学習指導要領が施行された。

 このとき、公立学校(小・中・高)で日の丸と君が代がはじめて義務化された。具体的には、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」といった文言だ。

 私が広島の県立高校に入学したのは、この1990年4月だった。このときの入学式は、26年経ったいま(※初出時)でもとてもよく記憶している。なぜなら、日の丸・君が代をめぐってきわめて異様な光景が眼の前で繰り広げられたからだ。

 前兆は、入学式に入場するときにすでに見られた。

 式が行われる体育館の最後列に、テレビカメラや望遠レンズを抱えたカメラマンが複数いた。「なんでうちの入学式を取材しに来たんだろう?」と、このときは不思議に思っていた。

 1年1組になった私は、入学式では最前列だった。女子生徒は左列、男子生徒は右列という配置、さらに出席番号は後半なので右列のさらに右側だ。体育館の右斜め前と言うとわかりやすいだろうか。

 そしてこのとき、私のすぐ斜め前で、体育館の壁沿いに座っていたのが、新任の校長をはじめとする教員一同だった。

 式は滞りなく進んでいたが、異様な光景は突然目の前で繰り広げられた。校長が、自分の机に置かれたマイクの前にカセットデッキを置いた。そして、教頭が「校長、このボタンです」とこそこそ言っている。それに対し、校長は「わかっとる!」と苛ついて返事をしていた。

 ほんの数メートル先なので、彼らの抑えた声もまる聞こえだった。物理的に、それに気づいた生徒は私を含めた数人だったはずだ。

 いったい、なにをしているんだろう?──まだ15歳だった私は、ぼんやり思っていた。

 そして「君が代」は、突然始まった。校長がカセットデッキの再生ボタンをガチャンと押したのである。

 式次第には、「国歌斉唱」が掲示されていなかったと記憶する。生徒や教員は、前の流れで起立したままだったが、校長と教頭を除く他の教員はその瞬間に一斉に座った。マイクを通した音の悪い「君が代」は、こうして場内に流れたのだった。

 体育館に放送設備がなかったわけではない。実際、校歌はちゃんと所定の機材を使ってスピーカーから流された。つまりその出来事は、「君が代」を流したい校長と教頭に協力する教職員が誰もいなかったことを意味する。

 学校で日の丸・君が代についての問題が生じていることについて、15歳の私はそれなりに知識があった。よって、即座に状況を理解した。校長・教頭と、他の教職員が日の丸・君が代で大揉めしているのである。マスコミ陣も、その現場に取材をしにきていたのであった。

日の丸・君が代をめぐる闘争の場

 後に知ることとなるのは、当時の広島の公立学校は国旗掲揚・国歌斉唱の実施率が全国で最低レベルだったということだ。そんななか、文部省(当時)から義務化を通達されたのである。新任の校長が、ひどくピリピリしていたのもそのためだ。この年度に行われた卒業式については、当時の朝日新聞でもその模様が伝えられている。

 学習指導要領で昨春、日の丸の掲揚、君が代の斉唱が義務づけられて初めての卒業式シーズンが終わった。実施率が低い県の教育委員会は率アップに懸命。県教委、管理職と強制に反対する教職員との厳しいせめぎあいが続いた。

(略)

 広島市西区の広島観音高校の卒業式では、君が代がテープで流れると同時に、教職員30人余りが一斉に着席、抗議の意思を表した。

 校長の式辞も最後に、日本のアジア侵略の歴史を理解する必要を説く異色なものだった。「日の丸、君が代がその旗印だったことも忘れてはなりません」。教職員との議論で合意した内容だった。

(略)

 広島は平和教育や同和教育の延長線上に日の丸、君が代問題がある。学校現場の反対は強く、県教委は今年度だけで、8回も徹底について通知を繰り返した。

(朝日新聞1991年3月28日付朝刊「日の丸・君が代、実施巡りせめぎ合い(時時刻刻)」)

 ここに出てくる広島観音高校が、私の母校である。このときの卒業生とは、私の2学年上の生徒たちだ。

 観音高校は、旧制広島二中としても知られる。爆心地から直線距離で2キロ弱。校舎は倒壊し、生徒344人、教職員8人が亡くなった。

 昨年(2015年)、日本テレビ系列で是枝裕和監督・綾瀬はるか朗読によるドキュメンタリー『いしぶみ〜忘れない。あなたたちのことを〜』(広島テレビ制作)が放送されたが、これは亡くなったこの広島二中の生徒たちを追ったものだ(1969年放送作品のリメイクでもある)。

後に劇場公開された『いしぶみ』のDVDより。
後に劇場公開された『いしぶみ』のDVDより。

S先生のこと

 観音高校が、日の丸・君が代問題で特に注目されていたのは、原爆被害の象徴的な学校だと見なされていた側面もあるのだろう。

 ただ、そんなことを意識して私は観音高校に入学したわけではない。というか、その歴史を知ったのは入学後のことだ。知ったのも偶然だった。たまたまくじ引きで美化委員になってしまい、高一のときに広島二中慰霊碑の掃除に行かなければならなかったからだ。

 自分にとっての観音高校とは、街中に位置する自由な校風の進学校だった。男子は私も含めてほとんどが学ランを着崩し、女子生徒の多くは当時流行ってたソバージュにしていた。毎学期に必ず各クラスで飲み会が行われていた。私も茶髪で、年間遅刻日数は200日を超えていた(たぶん学年トップクラス)。それほどグダグダの生徒だった。

 生徒の半数以上がチャラいのに進学校──いま思えば変わった学校だった。そんな学校が、日の丸・君が代をめぐる闘争の場となっていた。

 1990年度の観音高校における日の丸・君が代問題には、まだ続きがある。

 それにもっとも強く反対し、校長と争っていたのは、1年時の私の担任だったS教諭だった。卒業式で、生徒の前で校長とS教諭はかなり強い調子で言い争っていたと、後に出席した上級生から聞いた。

 当時20代後半だったS先生は、生徒みんなの前ではちょっとお調子者のキャラクターを演じていたが、基本的には生徒思いの真面目な教師だった。大人気というタイプではないが、上の学年などには彼を慕う生徒も少なくなかった。私自身も仲が良かったほうだ。

 だが、そんなS先生は私が2年生に進級するとき──つまり報道されたこの卒業式の直後に、他校に異動となる。そこは、広島市内で唯一の通信制高校だった。

 それが報復人事による左遷を意味するかどうかは、はっきりとは言えない。通信制高校が教師にとって不名誉な職場だとは言えないし、公立学校の教師が約5年おきに異動するのは当然だからだ。

 しかし、あまりにも不自然だった。

1992年、高校3年時の集合写真。中央が筆者。周囲の生徒がピースをするなど、学校のユルさがよく表れている。
1992年、高校3年時の集合写真。中央が筆者。周囲の生徒がピースをするなど、学校のユルさがよく表れている。

「義務化」で生じた公教育の無残な姿

 広島で公教育を受けた者にとって、日の丸・君が代の印象を一言で表せば「面倒くさいもの」だ。私が体験した入学式のように、教員たちには争う材料であっても、主役である生徒のほとんどは無関心だ。

 当時、広島市内で一、二を争うチャラい高校だった観音高校ならなおさらだ。隣の席にはパチンコ屋で16万円の大当たりをし、それで15万円の時計を買った同級生がいる。修学旅行では、部屋の全員を追い出してセックスしているカップルもいる。授業が自習になったときは、学校の近所に住むクラスメイトのマンションの屋上に行き、みんなでタバコを吸ってぼんやり時間を過ごしていた。

 そういうユルい学校だ。しかも、当時はバブル真っ最中。74年度生まれの生徒と教師の思いには、強いギャップがあったのである。

 もちろん、日の丸・君が代の義務化に内心強い疑問を抱えていた生徒や親もいただろう。ただし、ほとんどの者に共通するのは、それに対して声をあげることで入学式や卒業式を台無しにしたくないという思いだ。つまり、空気を読んでいた。

 公立学校の行事において、日の丸・君が代が問題視されることは理解できる。とくに広島は、原爆で甚大な被害を負った都市だ。そこには原爆のトラウマを抱えた多くの被爆者がいる。「被爆三世だから喘息がひどいのかもしれん」と話した同級生は、実際に複数いた。後になって考えてみれば、その因果関係はおそらく低い。しかし、そう思わせてしまうのが放射能の怖さだ。

 日の丸と君が代は、そうした悲惨な戦争を引き起こし、最終的に原爆を落とさせたアイコンとして広島では捉えられている。だからこそ、公立学校で義務化されることに教師陣が強く反対したのも、心情的にはわかる。入学式・卒業式で実施率が低かったのも、この点に基因するはずだ。

 一方、いま思えばあの校長の立場もわかる。教育委員会からは日の丸・君が代の実施を厳命され、部下の教師たちからは猛反対に合う。典型的な板挟みの中間管理職だ。もちろん県の教育委員会も、文部省の定めた学習指導要領に従わなければならない。上になればなるほど処分に怯えている。

 とは言え、やはりそれらは生徒の関知しないところで生じていた。生徒が授業でディベートをし、その結果投票で日の丸・君が代の実施を決めるなどするならば、話はべつだ。

 現場の教員間で軋轢を生み、主役である生徒は完全に置いてけぼり。結局、義務化して誰が幸せになったのか、いまだによくわからない。

 文科省ももう一度考えるべきだろう。彼らの言い分はおそらくとてもシンプルだ。日本の公教育を受ける以上は、国のアイコンである日の丸・君が代に敬意を払え、と。

 義務づけることで、愛国心が生まれると想定しているのだろう。ただ、それはなんとも浅はかだ。義務化で愛国心が生まれるなら、どこの国でもそうしている。

 文科省・県教委・校長・教師は主張と自己保身をぶつけ合い、生徒たちは「面倒くさいもの」として思考停止する──これが日の丸・君が代の義務化によって生じた、1990年の広島で生じた公教育の無残な姿だ。

「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね」──2004年の天皇のこの言葉は、どれほど文科省の役人に届いているのだろうか。

2022年2月、筆者撮影。
2022年2月、筆者撮影。

ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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