樋口尚文の千夜千本 第17夜 【追悼】高倉健
高倉健は日本映画の状況そのものを背負いつづけたヒーローだった
高倉健は、かつて娯楽の王様であった映画の最盛期から凋落期、そして現在に至る復興期、その状況を常に背負いながら歩んできた、文字通りの「映画俳優」であった。
高倉健というと1960年代の東映任侠路線で培われたニヒルでクールなイメージがずっと張りついていたが、ご本人を知る人がよく述懐するように、本当は至って陽気で人なつっこく、お酒もたしなまないのに珈琲だけでずっとお話に興じているような方だった。そもそもの映画デビューも1956年の東映映画『電光空手打ち』にニューフェイスとして抜擢され、演技経験もないままに主役を張ったというのがはじまりだったが、これなどは本当に画に描いたように爽やかで朴訥とした二枚目スター的な扱いに過ぎない(実際、この映画で共演して現場を観ていた当時の大部屋俳優の方の話を聞くと、まさかあの若き健さんがこんな大スターになろうとは予測できなかったという)。
このデビュー時から約十年近く、1965年の『飢餓海峡』あたりまでの高倉健は、基本的にはまだ辛うじて勢いの残っていた撮影所のプログラム・ピクチャーの、健康な二枚目スターという役割がほとんどで、作品もアクションからミステリーまでごくさまざまである(『悪魔の手毬唄』の金田一耕助だって演っている)。そんな多産のなか、名匠・内田吐夢監督は、『宮本武蔵』や『飢餓海峡』で高倉健の、通り一遍の二枚目にはない独特なナイーブさに注目していたようだが。
しかし1960年代後半にもなると、邦画興行は凋落の一途をたどり、それまでの竹を割ったようなヒーローの勧善懲悪物ばかりでは稼げなくなってきた。そこで元気を失いだした東映作品を盛り上げたのが、任侠路線のアウトローたることを引き受けた高倉健であった。しかしこれはくだんの逸話が物語るように、高倉健その人の本来の人となりとは相当違うイメージだったのだ。しかし観客は『日本侠客伝』『昭和残侠伝』などの、義理人情の板ばさみで苦悶と忍従を重ね、最後に破滅的に爆発する高倉健のアウトローぶり(『網走番外地』ではこの裏返しとしての極端な明朗さを発散させたアウトローたが)に大いなる共感を覚え、これらの路線はヒットを続けた。
だが、さらに映画興行が揺らぎ、大映の倒産や日活のロマンポルノ路線への転換など、窮状きわまってくると、東映のドル箱であった任侠路線も、もっとどぎつく刺激的な実録路線にとってかわられてゆく。そしてこの70年代半ば以降は、こうして既成の撮影所の映画が低予算のエログロや等身大のニヒルな日常性に走った季節でもあり、デビュー以来一貫して生っぽくない虚構性を持ち味としてスターらしい美学や夢を売ってきた健さんとしては、なんともいごこちの悪い作品傾向が主流となった。とはいえその一方で、そうやって銀幕らしい特別な夢の世界が失われゆく邦画界を再生さすべく、角川映画などの異業種も参入しての「大作映画」志向も活発化しはじめていた。そして、高倉健の主な舞台も、この「大作映画」へと移ってゆく。ワーナーの『ザ・ヤクザ』、東映の『新幹線大爆破』『冬の華』、新生大映の『君よ憤怒の河を渉れ』、橋本プロ=東宝の『八甲田山』、松竹の『幸福の黄色いハンカチ』、角川映画『野性の証明』と、この時期の高倉健は、スケールダウンしていく既成の映画会社の趨勢に逆らうように、次々に大作映画のヒーローを大型の演技で受けて立ってみせた。60年代の任侠路線のアンチヒーローの暗く無表情でニヒルな健さんとはずいぶん違う、正調のスケール感のあるスターらしい演技がこの頃の健さんを思い出深いものにしている。
こんな映画スターのルネッサンスを引き受けているようだった高倉健は、80年代以降も『駅 STATION』や『ブラック・レイン』『ミスター・ベースボール』などの洋画でその立ち位置を確固たるものにした。シネコンの普及により長く洋画興行に屈していた邦画興行が優位に立った現在も、遺作となった『あなたへ』では、さらにどこか柔らかで庶民的なイメージへのシフトをすら感じさせ、健さんは最後までその時代の映画にあわせて自らの殻を破ろうとしていたふしがあって、そんな意欲こそが単に身体の鍛練だけにとどまらない若々しさの源泉だったと思う。
このように高倉健は、1950年代の邦画最盛期~60年代の凋落期にかけて撮影所で量産されたプログラム・ピクチャーの陰陽のヒーローから70年代の大作映画の時代~現在のシネコン時代における映画スター(復興者としての)の時代まで、とにかく映画とともにあろうとした、そしてその時代の求めるものを引き受けてなんとか映画を死なせないように闘ってきた、最後の「映画俳優」であるに違いない。