高裁で否定された「忘れられる権利」 新しい権利として認めるべきなのか
忘れられる権利を否定した7月12日高裁決定
今月12日、東京高裁は、インターネット検索サイト「グーグル」の検索結果から、自分の逮捕歴に関する記事を削除するよう埼玉県の男性が同社に求めた仮処分申し立ての保全抗告審で、削除を認めたさいたま地裁の決定を取り消し、男性の申し立てを却下しました。
グーグル検索 削除命令取り消し 犯罪歴に「公共性」 東京高裁(産経新聞 7月13日)
事の発端は、ある男性が、児童買春・ポルノ禁止法違反罪で罰金50万円の略式命令を受けたことでした。逮捕から3年以上が経っているのに名前と住所で検索すると記事が表示されることに対し、「人格権を侵害されている」として、この男性は検索結果の削除を求めて仮処分を申し立てたのです。
これに対し、さいたま地裁は、平成26年12月22日、「ある程度の期間が経過した後は過去の犯罪を社会から『忘れられる権利』を有する」として、男性の逮捕歴を検索結果から削除するよう命じました。
このさいたま地裁の決定以前にも、例えば東京地裁平成26年10月9日判決など、検索結果の削除を命じた裁判例は複数ありました。ただ、それらの裁判例では「忘れられる権利」について明確に言及したものはなかったのに対し、このさいたま地裁の決定は、「忘れられる権利」を根拠として、検索結果の削除を命じた点が大きく異なっていました。同決定は、日本の裁判所ではじめて「忘れられる権利」に明示的に言及したものとして大きく話題となりました。
今回の東京高裁の決定は、この「忘れられる権利」を否定したことになります。
欧州で広まった「忘れられる権利」
そもそも、「忘れられる権利」は、おもにヨーロッパで広がった概念でした。
EU域内において、「忘れられる権利」が最初に問題になったのは、2011年11月のことです。フランスの女性が若い時に撮ったヌード写真が名前とともにネット上に掲載されていたところ、検索エンジンを提供するグーグルに対し、写真の削除を求めて訴訟を提起しました。結果的に、欧州司法裁判所は女性の主張を認め、グーグルに対して削除を命じました。世界で初めて「忘れられる権利」が認められた判決と言われています。
その後も、2014年5月、スペイン人男性が社会保障費を滞納していたと報じた過去の新聞記事にたどり着くリンクの削除を求め、こちらも欧州司法裁判所はグーグルに対して削除を命じています。
こういった一連の訴訟などを経て、欧州では問題意識が高まり、2012年以降欧州委員会において4年にも渡る議論が続きました。そうした議論の結果、EUでは、2016年4月14日、欧州議会において、「一般データ保護規則」(General Data Protection Regulation)が可決され、その17条で、「データ主体(本人)は自らに関する個人データを削除してもらう権利を持ち、管理者は遅滞なく削除する義務を負う」として、「忘れられる権利」が初めて明文化されました。
つまり、ヤフーやグーグルなどの検索エンジンサービス提供者に対して、「私の名前で検索をかけると、過去の犯罪歴に関する結果が表示されてしまう。これを消して欲しい」と本人が申し出た場合、管理者である検索サービスの提供者は、この条項に基づいて検索結果から当該表示と情報へのリンクを削除しなければならないということになる。
忘れられる権利はなぜ必要か
そもそも「忘れられる権利」が必要とされる理由はどこにあるのでしょうか。
一般に「忘れられる権利」といった場合、インターネット上に存在するすべての情報を対象とするものではなく、グーグルなどの検索エンジンにおける検索結果として表示された個人に関する情報などが対象となります。
本来、ウェブサイト上に掲載された個人情報については、サイトの管理者に対し、プライバシー侵害や名誉毀損、そして個人情報を根拠に削除を求めるのが原則です。しかし、現代のインターネットにおいては、情報は瞬時に拡散されてしまいます。この場合に、拡散されたサイトの一つ一つのサイト運営者のすべてに対して削除を請求していかなければならないとすれば、一個人にとってはもはや絶望的な状況といっていいでしょう。
そこで代替策として考えられたのが、検索エンジンの運営者に対する削除請求です。インターネットにおける多くのユーザーの行動は検索を端緒としています。検索エンジンはありとあらゆる情報をすべて整理し、ユーザーが入力したキーワードに応じて検索結果を表示してくれます。これによって、ユーザーは膨大な情報の海から、自分が求める情報にたどり着くことができるわけです。このことは逆に言えば、検索エンジンに引っかからない情報にアクセスすることが著しく困難であることを意味しています。つまり、情報のハブとなる検索結果での表示さえ止めることができれば、インターネットの掲示板やブログ、SNSに、自分のプライバシーや個人情報、誹謗中傷や名誉毀損が書き込まれていようと、アクセスする人間の数を劇的に減少させることができるわけです。
忘れられる権利の問題点とは
この新しい権利に関する法的な論点は様々なものがありますが、ここでは3つの問題点を指摘したいと思います。
一つは、検索エンジンは、検索結果に対して責任を負うのかという問題です。
実際にヤフーやグーグルといった検索サービスの提供者は、自分たちは、サイトのコンテンツを自主的に制作・編集しているわけではなく、あくまでウェブ上に存在する情報を整理し再構築して提示しているだけの価値中立的な「導管」であり、表示結果に責任を負うものではないと主張しています。
検索エンジンは、コンテンツの表示主体なのか、それともあくまで価値中立的なインフラに過ぎないのか。議論は分かれるところではあります。
二つ目の問題は、知る権利・表現の自由とのバランスです。ご存知の通り、現代社会においてインターネット、そして検索エンジンは、膨大な量の情報の中から自分が求める特定の情報にアクセスするために不可欠なものです。「グーグル八分」という言葉があるように、検索エンジンに引っかからない情報とは、「存在しないも同然」なのが現代の実状なのです。この情報社会において、検索エンジンはすべての情報を、その中身に対する価値判断を行わずに、中立的に整理し再構築するからこそ、知る権利や表現の自由にとって有益なサービス足りうるのです。仮に特定の情報、たとえばパナマ文書や法輪功といった情報のみが検索エンジンに一切表示されないとしたらどうでしょうか。安易に情報へのアクセスを断つことは極めて危険なことなのです。
最後の問題は、対応するコストを誰が負担するのかという論点です
グーグルの発表によれば、2014年5月の判決以降に受け取った削除依頼は、2016年2月時点までに累計約38万5973件であり、うち42.5%のリンクを検索結果から削除したとされています。また、英ガーディアン紙の報道によれば、「忘れられる権利」明文化以降EU圏でグーグルに寄せられた削除要請約21万件のうち、犯罪歴がある人からの要請はわずか2%程度に過ぎず、ほとんどは、うっかりネット上に載ってしまった情報を削除したいという極めて私的な動機に基づく請求であったそうです。それでも対象となるリンクの数はまさしく膨大なものであり、グーグルは、弁護士などに1つずつチェックをさせて削除等の対応を取っているのです。検索エンジンは大事なインフラではありますが、あくまで一私企業が提供しているものです。果たしてこの削除対応コストを私企業に負担させることは妥当でしょうか?
今回の高裁決定の意義とは
今回、東京高裁の杉原裁判長は「罰金納付からは5年以内で、今も公共性は失われていない」と判断し、忘れられる権利については「実体は名誉権やプライバシー権に基づく差し止め請求と同じで、独立して判断する必要はない」と指摘しました。
東京高裁は、「忘れられる権利」を認めた地裁の判断を覆し、「忘れられる権利」の存在を否定しました。つまり、仮に、プライバシー権が侵害されている場合には、それを理由として検索結果の削除を求めることはできるとしながらも、こうした権利侵害がない場合にまで、「忘れられる権利」という独立した権利に基づき、検索結果の削除を求めることはできないとしたわけです。
その上で、今回のケースでは、男性のプライバシー権は認めつつ、(1)児童犯罪の逮捕歴は公共の利害に関わる(2)時間経過を考慮しても、逮捕情報の公共性は失われていないといったことを理由に、プライバシー権に基づく削除請求も否定しました。
忘れられる権利は認められるべきなのか?
筆者としては、「忘れられる権利」を否定した今回の高裁決定は妥当な判断だと考えています。
忘れられる権利は、上記にあげたような問題点を多く含んでいます。そのような状況である中、一度この権利を明文化してしまえば、安易な削除請求が大量に発生してしまう可能性を否定できません。たとえ「忘れられる権利」が認められなくても、リベンジポルノやいわれのない誹謗中傷といったような救済が必要な深刻な事例ならば、既存のプライバシー侵害や名誉毀損といった人格権に基づく差し止め請求で対応できるのです。
名誉毀損やプライバシー侵害は、これまでの蓄積があるので客観的基準で判断することができますが、「忘れられる権利」という新しい概念については実例があまりに少なく、運用をひとつ間違えれば単に対象者が望めば削除できる権利になってしまうというおそれがあります。
そして何より、知る権利や表現の自由と対立する権利を考えるにあたっては、私たちは慎重でなければなりません。情報社会における根幹的なインフラである検索エンジンが情報の取捨選択を行うとすれば、検索結果の中立性に疑念が生じかねません。「忘れられる権利」は、一市民だけではなく、時の権力者が自分にとって都合の悪い情報を表示させないようにすることができる武器になりうるということにも、我々は注意を払う必要があるでしょう。
今回の裁判でも、杉原裁判長は、「事件から5年が経過しても逮捕歴の情報の公共性は失われておらず、検索結果を削除すると表現の自由や知る権利が侵害される」と述べています。
今はまだ、新しい権利としての「忘れられる権利」を認めるために十分な議論が蓄積されているとは思えません。ある問題に直面した場合においてまず考えるべきは、安易に新しい権利を作って処理することではなく、既存の概念や枠組みを使って対応することではないでしょうか。その土台となる社会の共通認識が蓄積されていない状態で、いたずらに新たな概念を持ち込んでも、各人の理解がお互いに錯綜してしまい、結果的に混乱をきたすというデメリットのほうが大きいおそれがあります。
個別の事案には、引き続きプライバシー権侵害などを用いながら対応し、それでも対応しきれない事例が続出するような状態となって初めて次のステージへ進むことができると考えます。その頃には、社会での議論が高まっており、必要な概念のかたちがより明確に浮き彫りになって共通認識を形成していることでしょう。「忘れられる権利」を認めるのであれば、そうした過程を経た上であっても決して遅くはありません。