自衛官が予算編成に関わることがシビリアン・コントロールを脅かすのか
8月8日付の東京新聞に次のような記事が掲載されました。
2023年度予算に関する調整で、制服組である統合幕僚監部が査定側に加わったことを受けて、省内査定で、背広組のチェック機能が低下し、制服組の軍事的意見に偏重する恐れがあり、政治が軍事に優越するとの「文民統制」の原則が脅かされる懸念もあるとしています。
しかし、制服組が予算編成に関与すること、そして背広組である防衛官僚によるチェック機能が低下することは(万が一そのようなことがあったとして)、「文民統制」すなわち「シビリアン・コントロール」が脅かされるような事態と言えるのでしょうか。
政軍関係の大家であるサミュエル・ハンチントンによれば、「シビリアン・コントロールとは、文民である政治指導者の政策に軍事専門性のある軍事組織を適切に従わせることであり、この場合の文民は国民選挙によって選ばれた政治指導者であり、最高指揮官としての責任を負う」と定義しています。
このように、シビリアン・コントロールとは、軍事力に対して民主主義的な統制を加えることに要諦があり、主権者である国民が選挙により選出された国民の代表を通じ、軍事に対して最終的判断・決定権を持つという国家安全保障政策における民主主義の基本原則なのです。
しかし、日本では長らく、政治家による優越ではなく、もっぱら文官である官僚が自衛隊を制御することがシビリアン・コントロールであるとされてきました。
かんたんに歴史を振り返ってみましょう。
軍国主義復活を封じ込めるために生まれた「文官優位システム」
敗戦によって軍備を否定された日本では、朝鮮戦争勃発を機に警察予備隊が設置されます。しかし、その設置にあたっては、当時の政府が「シビリアン・コントロール」の概念自体をそもそも理解できていないという有様であったことに加え、また軍事の素人である警察官僚たちが、「軍隊」というものがどういうものなのかについて理解が及んでいない状況において、急ごしらえでつくったというのが実情でした。
旧内務省系官僚たちが、陸軍軍人を排除した背景には、戦前において横暴であった軍に対する反発が強かったと言われています。実際に服部卓四郎元陸軍大佐を中心とする「服部グループ」が、反吉田の鳩山一郎たちに接近し、旧軍人による警察予備隊参加を画策しており、少しでも気を許せばかつての軍国主義が復活するおそれのある状況でした。
戦前の日本に回帰しようとする、旧軍の亡霊に立ち向かうために錦の御旗としてかついだのが、GHQから与えられた「シビリアン・コントロール」という概念だったわけです。「戦前の悪夢のような軍国主義を復活させないために、自分たち内務官僚がしっかりと軍隊というものをコントロールしていかねばならない」、という考え方が、いつのまにか、「官僚による統制」、すなわち「文官統制=文官優位システム」となっていったのでした。ここに日本における「シビリアン・コントロール」の特異性が存在します。
保安隊発足と訓令9号
その後、日本は1951年9月にサンフランシスコ講和条約に調印し、翌年4月の条約発効をもって独立を果たします。吉田茂は独立に伴い、米国との約束に従って警察予備隊を増強するため、1952年7月に保安庁法を成立させ、10月15日に保安隊が発足しました。
保安庁法4条は保安隊の目的を「わが国の平和と秩序を維持し、人命及び財産を保護する」と規定しており、保安隊は警察の補完的位置づけだった警察予備隊から一歩進み、治安維持部隊として位置づけられていました。これに伴って旧軍の大佐級の採用を進め、質量ともに少しずつより軍隊に近づいていきます。
保安庁長官の下には、官房及び各局という文官で構成された内局と、制服組で構成された幕僚監部という二つの補佐機関が設置されました。今なお自衛隊に受け継がれている、「背広組」と「制服組」です。
このうちいずれが優位となるかについては、保安庁法10条が、内局の補佐によって長官が指示を作成し、その指示に基づいて各幕僚長が実施を行うと定めることで、内局が優位であることが法律上も明らかにされました。また、保安庁法16条により、制服組は内局幹部に就けないことも定められました。
さらに、制服組に対する統制を強めるために「保安庁の長官官房及び各局と幕僚監部との事務調整に関する訓令(保安庁訓令第9号)」(1952年10月7日)が通達されました。
訓令第9号は、長官が幕僚長へ指示する方針や実施計画の案の作成については内局が立案し(3条)、幕僚監部が長官に提出する方針等を、内局が審議し(3条3)、原則として、自衛官は国会や他省庁と連絡や交渉をしてはならず(8条、14条)、幕僚監部が作成した方針や報告等は、内局を通して長官へ提出する(11条、13条)といったものであり、この訓令第9号によって、内局が、対外的には保安庁を代表し、対内的には保安庁長官と幕僚監部の間に入ってコントロールを効かせるというルールが確立されたわけです。
保安庁法と訓令9号の規定によって、保安庁発足と同時に設置された背広組である内局が制服組の上に立ってコントロールを行うという「文官統制」はより一層強固なものとなりました。
保安庁法10条の規定は防衛庁設置法20条に引き継がれ、制服組と政治家・他省庁の接触を制限した保安庁訓令の規定も引き継がれました。こうして、「文官統制」は法制度として組み込まれていきます。
自衛隊の発足と防衛参事官制度
1954年7月1日、自衛隊法が施行され、保安隊は陸上自衛隊に、警備隊は海上自衛隊に改組されたほか、新たに諸外国の空軍に相当する航空自衛隊も新設され、陸海空の各自衛隊が成立しました。ここに現行の陸海空三自衛隊が揃い、同日付で防衛庁設置法も施行され、保安庁は防衛庁に改組されました。
自衛隊と防衛省の発足にあたって「防衛参事官制度」が設けられました。防衛参事官の役割は、「長官の命を受け、防衛庁の所掌事務に関する基本的方針の策定について長官を補佐する」というもので、本来は米国防総省の国防次官補のように政治任用の閣僚補佐官となるはずでした。
ところが、防衛省設置法がつくられたときに「官房長及び局長は、防衛参事官をもって充てる」という規定が入ってしまったため、防衛参事官は、内局の官房長や各局長を兼務することとなり、結果的に内局が制服組と長官の間に入ることとなってしまったのです。制服組への統制を果たすものとして、長らく「文官優位システム」の象徴として制服組から批判されてきました。こうした批判を受けて、防衛参事官制度は2009年には廃止されています。
こうした文官統制の詳細については、拙著『国民を守れない日本の法律』の第3章に書かれていますので興味のある方はご一読ください。
真のシビリアン・コントロールとは
このように戦前の軍隊の暴走に対する反省に立った戦後日本は、警察官僚、そして後には防衛官僚によるコントロール=「文官統制」が長らくシビリアン・コントロールであるとして誤解してきました。
しかし、すでに述べたようにあくまで民主的手続を経た政治家が軍事を統制することがシビリアン・コントロールであって、官僚が軍人を支配することは、民主的統制とは本質的に異なります。
そもそも軍事の専門家である自衛官が予算編成に関して専門的見解を述べることは必須です。軍事的素人である背広組が、実際の運用などを考えずに予算をつくってしまっては、いくら金額をかけてもおよそ効果的な安全保障政策など練ることはできないでしょう。
その意味で、統幕が予算編成に関与することは望ましいことでこそあれ、シビリアン・コントロールを脅かすような事態でないことは明らかです。
大事なのは、この安全保障政策に関して、政治家がしっかりと理解をし、統制を効かせることです。そして政治家がしっかりと安全保障について見識を持つためには、主権者である我々国民が安全保障について知識・関心を保つ必要があります。
また文官たる官僚は政治家の理解を深めるための補佐をしっかりと行うことでシビリアン・コントロールを実効あらしめる必要があります。決して背広組が制服組に対して優位に立つことではなく、双方協力して政治家が適切な判断を下せるようにすることが肝要です。