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真田昌幸は西軍に与したので、孫に会うことができなかったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上田城の南櫓。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、真田昌幸が子の信繁とともに東軍に与する決断をしていた。その後、昌幸は長男で東軍に与した信幸(信之)の妻の稲のもとを訪れたが、実際は孫への面会が叶ったのだろうか。考えることにしよう。

 天正元年(1573)、稲は本多忠勝の娘として誕生し、のちに昌幸の長男・信幸(信之)のもとに輿入れする際、徳川家康の養女となった。その経緯に触れておこう。

 天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、上杉、徳川、北条などの諸大名が信濃・上野などを領有しようと争った。3年後の天正13年(1585)、家康は昌幸が籠る上田城(長野県上田市)の攻撃に失敗した。

 その後、豊臣秀吉が家康と昌幸との仲介に入り、その2年後の天正15年(1587)には、真田氏が徳川氏の与力大名になることで解決した。その際、信幸(信之)は妻として稲を迎えた。稲は当時18才で、夫の信幸(信之)は7才年上の25才だった。

 真田一族の運命を変えたのは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦である。家康は上杉景勝を討伐するため、会津(福島県会津若松市)に出陣した。昌幸も家康に従い出陣し、犬伏(栃木県佐野市)に着陣し、信幸(信之)は宇都宮(栃木県宇都宮市)に陣を置いた。

 そのとき、昌幸のもとに届いたのが、家康への挙兵を告げる西軍の石田三成の密書であり、三成は昌幸に味方になるよう要請したのである。昌幸は信幸(信之)と信繁を呼び寄せ、どちらに味方すべきか相談した。

 昌幸は生き残りを掛けて、二手に分かれて戦うことを提案し、昌幸と信繁は西軍に、信幸(信之)は東軍の徳川方に属して戦うことになった。どっちが勝っても、真田家が存続するという算段だ。

 真田一族は敵と味方に分かれたが、昌幸は一つだけが願いがあった。それは、信幸(信之)の子つまり孫に会うことだった。昌幸は上田城へ戻る途中、信幸(信之)の居城の沼田城(群馬県沼田市)に立ち寄り、城内の稲に孫への面会を申し出たのである。

 大手門にあらわれた稲は、鎧に身を包み薙刀を手にし、「父上であっても敵である、城に入れることはできない」と言い放った。稲は昌幸を孫に会わせたい気持ちがあったかもしれないが、心を鬼にして断わり、武将の妻としての意地を見せたのだ。

 むなしく昌幸らは引き上げたが、武装した稲の侍女たちがあとを追ってきた。そして、沼田城近くの正覚寺へ昌幸らを案内すると、そこに昌幸のかわいい孫が待っていた。昌幸はしばし孫との歓談を楽しみ、正覚寺をあとにしたという。

 この話には異説があり、実際には会わせなかったという話もある。また、多くの大名は妻が大坂に預けられていたので、稲は沼田城には在城しておらず、大坂にいたのではないかとの指摘もある。

 結局、関ヶ原合戦は東軍が勝利し、信幸(信之)は上田城を与えられた。その背景には、稲の献身的なサポートがあったといっても過言ではない。元和6年(1620)に稲は亡くなった。享年48。昌幸が本当に孫に会えたのか、真相は不明である。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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