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凋落した3人の戦国武将のその後と最期とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
宇都宮城。(写真:イメージマート)

 人気がなくなった著名人でも、ある日突然、報道などで最期を知ることがある。戦いに敗れて凋落した戦国武将の中にも、記録にその後の様子や最期が残ることがあるので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎宇都宮国綱(1568~1607)

 宇都宮国綱は下野国19万石を領し、豊臣秀吉の配下に加わり、各地を転戦していた。ところが、慶長2年(1597)、国綱は秀吉により改易された。一説によると、国綱は実子がおらず、浅野長政の三男の長重を養子に迎えようとしたという。

 しかし、この案は家臣に反対されたので、長政が遺恨を抱き、秀吉に讒言したといわれている。国綱は宇喜多秀家を頼り、秀吉から朝鮮出兵の軍功次第で許すといわれたが、実現しなかった。徳川家康にも仕えたというが、家の再興はかなわず、慶長12年(1607)に江戸浅草の石浜で亡くなった。

◎土岐頼芸(1502~1582)

 土岐頼芸は美濃国守護だったが、天文11年(1542)に重臣の斎藤道三により、美濃国から追放された。その後、頼芸は尾張国の織田信秀を頼った。当初、信秀は道三と対立していたが、のちの和睦をしたので、頼芸は信秀から見捨てられることになった。

 頼芸は弟の治頼を頼り常陸国に向かうと、系図や家宝を譲渡した。それから一族の土岐為頼や武田氏を頼ったが、その間に失明したという。武田氏の滅亡後、頼芸は織田信長に仕えていた稲葉一鉄の計らいで、美濃国に戻ることができたが、天正10年(1582)10月に亡くなったのである。

◎増田長盛(1545~1615)

 増田長盛は五奉行の一人として関ヶ原合戦を迎え、西軍に与して戦ったが、結果は無残な敗北だった。戦後、長盛は改易となり、出家して高野山行きを命じられた。その後、長盛の身柄は、岩槻城(さいたま市岩槻区)主の高力清長に預けられた。

 子の盛次は、尾張藩主の徳川義直(家康の子)に仕えていたが、慶長20年(1615)に大坂夏の陣がはじまると、豊臣方に味方した。しかし、豊臣方は徳川方に敗れ、滅亡した。戦後、長盛は徳川方から自害を命じられ、同年5月に亡くなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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