局アナになる方法、そしてフリーアナウンサーで食っていく方法を教えます
初出:「会社を辞めたぼくたちは幸せになったのだろうか」の一部を大幅に加筆して掲載
このところ、第二次、第三次の起業ブームが起きています。個人がサラリーパーソンから独立し、士業やコンサルタント、また個人事業主として食っていくとき、どのような困難が待ち受けているのか。私は一人の独立した人間として、他の先人たちに興味を持ちました。彼らはどのように独立して、食えるにいたったのか。それはきっと起業予備軍にも役立つに違いありません。さきほど、「第三次の起業ブーム」と入力しようとしたら、「大惨事」と変換されました。まさに大惨事にならない起業の秘訣とは。まず、フリーアナウンサーの宮本ゆみ子さんにお話を聞きました。
――宮本さんの特殊な職業経歴について、お話しいただけますでしょうか。
会社を辞めるつもりなんてありませんでした。会社員当時は独立してやっていけるとはとても思っていなかったし、起業するなんて考えに及びもしませんでした。実際に法人化したのは会社を辞めてから15年も後のことです。それまではずっと個人事業主として働いてきました。当時は今と違って、株式会社なら1000万円、有限会社でも300万円の資本金が必要だったからです。
そのため、「起業」というより、会社員を辞めてから初めての仕事を得るまでをお話しします。多少特殊な仕事のため、一般的な独立・起業には当てはまらないかもしれないことをご了承ください。
約3年勤めた会社を辞めたのは、結婚のためでした。私は金沢のラジオ局に局アナとして勤務していました。40人の中から採用された同期は私ともう一人。小さいころからの憧れだったラジオ局での仕事を、本当は辞めたくなどなかったのです。だけど、結婚相手は名古屋に住む大学時代の同級生。遠距離結婚をする勇気もなく、そういうものだ、仕方がないと自分をなだめながら私は金沢を離れました。
配偶者となった同級生は、名古屋のテレビ局に勤めていました。報道記者でした。警察への夜討ち朝駆けや、事件発生に伴う緊急招集などがあって、24時間臨戦態勢です。何時に出かけて何時に帰ってくるのか、全く予測のつかない毎日でした。新婚だろうとお構いなし。私はほとんど知り合いもいない街で、食べられることなく冷めていく手料理を片付けながら、ひとりぼっちで家で過ごすことが日常となりました。
結婚前は、相手がテレビ局の人なんだから、きっと、ちょっとしたアナウンスの仕事くらい紹介してくれるだろうという思惑がなかったわけではありません。けれど、私が仕事をするのを良しとしない相手だったから、思惑が叶うことはありませんでした。作り置きしておいた手料理をレンジで温めなおして食卓に乗せると、親や友人に「うちの嫁は“レンジでチン”したようなものしか俺に食わせない」と愚痴をこぼすような人です。私は専業主婦として、シャツにアイロンをかけ、家を磨き、特売日には早起きをして少し遠くまで買い物に出かけ、特に誰とも会話をすることもない日々を過ごしていました。インターネットもまだ一般的ではかなった時代です。自由時間はたくさんあったが、息が詰まりそうでした。
――初仕事獲得のきっかけは何だったのでしょうか。
そんな生活を送るようになって半年が過ぎたある日、新聞に、ローカル局のレポーター募集の広告を見つけました。主人に相談してみたところ意外にも「やってみれば?」という返事。テレビの仕事は未経験とはいえ、また放送の仕事に関われるかもしれないと思い、胸が高鳴りました。
書類審査は通過。オーディションも和気藹々とした空気の中で進み、私はある程度の手ごたえを感じていました。ところが結果は不合格でした。
「今回はもともと、プロの方ではなく素人を使うつもりで募集していたんですよ。あなたはプロなので……」と言われました。
えっ、私、もうプロじゃないのに。プロじゃなくてただの専業主婦なのに――。電話越しに聞こえるディレクターの言葉に、絶望的な気持ちになりましたが、次の瞬間、予想外の言葉が耳に入ってきました。
「あなたはプロなので、うちのアナウンス部長と面談してもらえませんか?」と言われたのです。
今でこそ、アナウンサーが局から局へと転職をするのも良くある話だが、当時は一度辞めたアナウンサーが別の放送局で働くことは稀でした。面談をするといってもそれが就職の話でないことは察しがつきました。けれど上手くいけば、契約で何か仕事をさせてもらえるかもしれない。緊張しながら、アナウンス部長との面談に臨みました。
しかし、そこでまた、私は打ちのめされることになります。
「ああ、ご主人が別の局にお勤めですか。しかも報道ですか。うーん。それだとちょっと、うちで何かお願いするのは難しいですね。スクープか何かあったときに、あちらの局に抜け駆けされたら、あなたが疑われてしまいますからね」と言われたのです。
予想外の言葉に、頭がくらくらしました。その言葉の意味を呑み込めませんでした。その時の私はよほどこの世の終わりのような顔をしていたのでしょう。アナウンス部長が気の毒に思ったのか、こう続けてくれました。
「でも、アナウンサーの仕事はいろいろありますから。名古屋にもいくつかフリーアナウンサーの事務所があるから、紹介しますよ。良かったらそういうところに所属して仕事をしてみたらどうですか?」と。
――アナウンサーというお仕事について教えていただけますでしょうか。
それでは、アナウンサーという職業について改めて説明します。テレビなどで目にする「アナウンサー」を名乗る者には大きく2つの身分があります。放送局の社員として働く「局アナ」、そして、局と様々な形態の契約で出演する「フリーアナウンサー」この2つです。見ている人にはあまり関係のない区分かもしれないが、本人の働き方は大きく違います。言ってみれば、正規雇用と非正規雇用です。
正規雇用の局アナは番組が終了しても職を失うことはないが、社内都合による異動はあります。アナウンサーからほかの部署のほかの仕事に配置転換させられるのはよくある話です。一方のフリーアナウンサーは、契約にもよるが番組が終わればそれで終わりです。ただ、一つの局に縛られることなくほかの媒体で活動する自由もです。
フリーアナウンサーの多くは、アナウンサー事務所や芸能事務所に所属しています。まったくのフリーランスで活動する人はそれほど多くはありません。OLや学生をしながらアナウンス学校に通い、オーディションを経てフリーアナウンサーになった人はもちろんのこと、私のような局アナ出身のアナウンサーも、多くはどこかの事務所に所属して仕事をします。局アナ時代によほど有名だった人でない限り、初めから完全フリーで仕事を軌道に乗せるのは難しいでしょう。
有名な人であればあったで、仕事のオファーが殺到するからそれを捌いてくれる人や組織が必要となります。また、小さな地方局であろうと顔や名前が出る仕事である以上、思いもよらない危険にさらされることもあります。自分の身を守るために事務所に所属するという人もいます。
かといって、誰でも事務所に所属できるというわけではありません。その事務所の養成所を卒業したところで、専属契約に至る人は一説によると3割以下と言われています。ほかの説では約1割という人もいます。事務所によって事情は違うのでしょうが、各事務所が公表しているものでもないので様々な数字が飛び交っています。
また、私のような元局アナならすぐ事務所に入れるかというとそうでもないのが現状です。事務所との相性もあるし、何より「ご縁」がものをいうことが多いのです。そのため「何割の元局アナが事務所に所属して活動」という具体的な数字はなかなか挙げられません。
事務所に所属すると、マネージメント費用としてのマージンがかかるものの、多くの場合、個人に代わって事務所が営業をして仕事の機会をとってきてくれるのが通常です。なんだ、フリーアナウンサーは営業しないのか、と言われてしまいそうですが、営業担当が頑張ってくれるのは仕事の機会を与えてくれるところまで。いくら機会を与えられても、通常、オーディションに合格しなければ仕事はありません。
オーディションのない仕事ももちろんありますが、大きな仕事であればあるほど何らかの選考試験は行われます。これを一般のビジネスに置き換えると、オーディションは言ってみれば受注に際してのプレゼンの場です。そこで失敗したら受注には至りません。事務所の営業担当の努力を無にしてしまいます。営業担当が仕事をとってきてくれるから事務所に入れば安泰、というのは大間違いです。事務所に所属したところで、仕事が無い人は一向に無いのです。
ここまで長々とアナウンサーの現実についてお話ししたのは、アナウンサー本人がいわゆる営業を直接行っているわけではないことの御断りと、かといって営業的な行為を全くしていないわけではないという言い訳のために他なりません。
――気づいたらフリーアナウンサーになっていたのでしょうか。
はい、私は運よく、在名古屋テレビ局のアナウンス部長の紹介により、名古屋にある大手のアナウンサー事務所に所属することができました。所属したからといってすぐに仕事があるわけではないのは先ほどお話しした通りです。しかし“テレビ局アナウンス部長の紹介”というのが効いたのか、ほどなくして新年度からの新番組に向けてのオーディションを紹介してもらうことができました。
一つめは、ラジオテレビ兼営局のラジオ番組アシスタントです。ラジオなら願ったり叶ったりです。初めてのオーディションということもあり、意気込んで臨みました。しかしここでも「ご主人がほかの局の報道ということだと、ちょっと使いづらいね」と言われ、玉砕しました。今になって思うと、もしかしたら「ご主人が他局だと……」は、ていのいい口実だったのかもしれません。真実は今となっては確かめようがありませんが。
「ご主人が他局の報道では……」という理由で断られたのが2度目です。自分一人で営業していたら、その時点でもう心折れていたことでしょう。正直なところ、私もかなり諦めていました。名古屋にいる限り、私はもう放送の仕事はできないかもしれない。やはり専業主婦を全うするべきなのか。そう思っていました。
――二つ目のオーディションはどうだったのでしょうか。
二つ目のオーディションは、事務所が紹介してくれました。浜松にある静岡県域のFM局で、毎日の生放送を一人で担当するパーソナリティの仕事です。浜松は私の故郷。その局は、ティーンエイジャーの頃夢中になって聞いていた放送局です。実は就職試験の際にもエントリーしたのだが、儚くも書類選考で散った経緯があります。その放送局に出演できるチャンスがやってきました。
名古屋の自宅から浜松のスタジオまでは、新幹線「ひかり」を使えばおよそ50分。交通費が自腹なのは痛いけれど、通えない距離ではありません。幸い、放送時間は13:00~17:00。準備のために3時間前に局に入るとしても、9時前に出れば間に合うし、片付けや雑務を終えてから局を出ても20時には帰宅できます。物理的には十分可能です。しかも、浜松の放送局なら「ご主人が他局の報道では……」と断られる可能性はぐっと低くなるはずです。専業主婦を望む配偶者のことが頭をよぎったのですが、この機会を逃したらもう放送の仕事には戻れないと思いました。
これが最後のチャンスという覚悟で、そのオーディションに臨みました。とはいえ、特に奇をてらったことをするのではなく、局アナだったときと同じように、マイクの向こうにいるはずの何千人何万人という顔を思い浮かべながら、その中のたった一人に向けて語り掛けました。あっけないほど直ぐに「採用」の連絡が来ました。
――浜松の放送局でのお仕事はどうでしたか。
週4日、1日4時間の他県での生放送、交通費は、定期を使っても1か月10万円です。それが、私が会社員を辞めて最初にいただいた仕事でした。繰り返しますが、別に会社を辞めるつもりも、独立するつもりもありませんでした。
しかし女性はライフステージの変化によって、自分ではどうしようもなく環境を変えなければいけないこともあります。結婚相手によっては、職業を制限されることもあります。それでも、会社員時代にある程度の経験と技術を蓄えておけば、諦めさえしなければいつかチャンスはやってきます。そのチャンスは万全な形では現れないかもしれません。それでも最初の一歩を踏み出すためには、選り好みなんてしている余裕はないというのが、その後も仕事を続けている多くの人の実感ではないでしょうか。
あのとき、「主人が専業主婦を望むから」「交通費が嵩むから」「勤務地が自宅から遠いから」等、様々な理由を挙げてチャレンジせずオーディションを断っていたら、おそらく私はその後「アナウンサー」を名乗るほどの仕事はできなかったでしょう。
浜松の放送局では、おかげさまで多くの方に番組をお聴きいただき、高い聴取率を得ました。番組をご縁に、今でもお付き合いの続く多くの出会いを得ることができました。宝物のような日々でした。
その番組が2年で改編となり、私はさらに3年間、週末の番組を担当することになりました。離婚や様々なトラブルに見舞われ身体を壊し、生きることの苦しさに直面せざるを得なくなるのは、それからまた後のお話です。人生はいろいろなことが起きるものです。それでもおかげさまで、名古屋を離れて山あり谷ありでも、会社員を辞めてから15年後にかろうじて法人設立できるくらいの仕事は続けてこられました。それも、浜松の放送局での「はじめの一歩」があったからこそだと自負しています。
<プロフィール>
宮本ゆみ子(みやもと・ゆみこ)
元エフエム石川アナウンサー。元K-MIX、元エフエム群馬パーソナリティ。FMおだわら「印南敦史のキキミミ図書館」に書評家の印南敦史氏とともに出演。フリーランスアナウンサーとして活動する一方で、ライターとしても2016年4月までに13冊の書籍ライティングに携わる。「自分の本を出したい」「自分のラジオ番組を持ちたい」という夢を持つ人のサポートにも力を入れている。
FMおだわら「印南敦史のキキミミ図書館」 http://www.book-radio.net/
初出:「会社を辞めたぼくたちは幸せになったのだろうか」の一部を大幅に加筆して掲載