関ヶ原合戦。細川幽斎の命を救った「古今伝授」とは何か
京都市の冷泉家時雨亭文庫で、藤原定家による『古今和歌集』の注釈書『顕注密勘』が「古今伝授箱」から発見された。大ニュースである。こちら。
戦国時代の武将・細川幽斎は古今伝授を授けられたおかげで、命を生き長らえた。その辺りの事情を探ってみよう。
古今伝授とは、どういうものなのか。古今伝授とは、『古今和歌集』の解釈を中心として、師が歌学などを口伝、切紙、抄物で弟子に伝えることである。その内容は秘伝とされ、神秘のベールに包まれている。
『古今和歌集』とは最初の勅撰和歌集で、延喜5年(905)に醍醐天皇の勅命により編纂が開始された。選者を担当したのは、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人である。
127人が詠んだ1111首の和歌は、四季など13部に分類し収録された。その歌風は、繊細かつ優美で理知的であり、後世の和歌に与えた影響も非常に大きかった。
室町中期になると、そうした歌学が神道や仏教などに基礎付けられ、卜部神道と関係が深い二条宗祇流、天台教理と関連性のある二条尭恵流が古今伝授として成立したのである。そして、古今伝授は秘儀として、代々伝えられた。
天正2年(1574)、細川幽斎は山城国勝竜寺(京都府長岡京市)において、三条西実枝から切紙伝授と呼ばれる方法で古今伝授を授けられた。その様子は、智仁親王が『古今伝授座敷模様』という記録にまとめている。
そのようなことで、幽斎は『古今和歌集』の書写や研究にも熱心だった。永青文庫所蔵の『古今和歌集』は幽斎が書写したものだが、師の実枝に校正用に相伝の「古今和歌集」を借り受けたほどである。名実ともに、実枝の後継者にふさわしい人物だった。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の開戦間近になると、幽斎は東軍の家康に味方し、わずか500人という手勢で丹後国田辺城(京都府舞鶴市)に籠城した。同年7月、西軍の軍勢に田辺城は攻囲されたが、少数で西軍の軍勢をよく防いだ。
田辺城が落城しなかったのには、大きな理由があった。当時、和歌や連歌に関心を持つ武将は多く、西軍の軍勢の中には幽斎の弟子も数多くいた。彼らは幽斎を討ち取ることを躊躇していたのである。西軍にとっては、大きな誤算だった。
事態をもっとも憂いたのは、後陽成天皇である。後陽成は古今伝授の伝承者がいなくなるのを恐れ、三条西実条らを勅使として田辺城に派遣し、勅命によって講和を結ばせたのである。幽斎は、9月18日に2ヶ月余りの籠城戦を終え開城した。
三条西家から幽斎に伝わった古今伝授は、近世に至って後水尾天皇ら歴代天皇や上層公家に伝えられ、御所伝授として確立した。古今伝授は幽斎の命を救っただけでなく、伝統をも救ったのである。