豊臣秀吉の妻「おね」は、側室の淀殿と対立関係にはなかった
大河ドラマ「どうする家康」の新キャストが発表され、和久井映見さんが豊臣秀吉の妻「おね」を演じることになった。今回は、「おね」と淀殿は対立関係にあったといわれているが、それが事実なのか考えることにしよう。
豊臣秀吉と「おね」(秀吉没後は高台院であるが、以下「おね」で統一)が結婚したのは、永禄4年(1561)のことといわれている。2人の結婚は政略ではなく、恋愛結婚だったと考えられる。
秀吉と「おね」との間には、ついに後継者たる男子が誕生しなかった。このことは、豊臣家の永続性を考えると、非常に大きな問題となった。そこで、秀吉は多くの側室を迎え、最終的に淀殿(浅井長政とお市の方の娘)が秀頼を産んだのである。
一説によると、「おね」は側室の淀殿が家督を継ぐ秀頼を産んだので激しく嫉妬し、やがて対立する関係に発展したという。一見すれば理解しやすい話であるが、両者の対立を示す確かな史料があるわけではない。実際はどうだったのだろうか。
近年の研究によると、2人は豊臣政権を守り立てるべく、逆に強固な関係を結んでいたと指摘されている。秀吉の死後、淀殿は秀頼の後見を務めたが、それは当時としては当然のことだった。北条政子が夫の源頼朝の亡き後、子の頼家や実朝の後見を務めたのと同じである。
当時、夫が亡くなると、残された妻は家を守るべく、幼い我が子の後見となり、一定の政治権力を保持した。淀殿は慣例に従ったまでで、「おね」から嫉妬される謂れはなかった。逆に、「おね」は亡き夫の仏事に専念していたのである。
慶長13年(1608)3月、秀頼は天然痘に罹り、医師の曲直瀬道三から治療を受けていた。その一報を耳にした「おね」は大変驚き、道三に秀頼の容態を尋ねたという。秀頼はただ一人の豊臣家の後継者だったので、非常に心配したのである。
このように、「おね」と淀殿の関係は対立ではなく、逆に協力しながら豊臣家を守り立てようとしたのは明らかである。両者の関係が険悪だったというのは、後世になって淀殿を貶める傾向があったので、そこからの着想によるものと思われる。
主要参考文献
跡部信「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』34号、2006年)。
田端泰子『北政所おね:大坂の事は、ことの葉もなし』(ミネルヴァ書房、2007年)。