この夏甲子園にさわやかな風を吹かせたおかやま山陽高校・堤尚彦監督の原点、ジンバブエの野球とは?
残念ながら準々決勝で敗れたが、この夏の甲子園をおおいに沸かせたのが岡山代表のおかやま山陽高校だった。選手のマナーの良さも各方面から絶賛されたが、そのチームを育て上げた堤尚彦監督の異色の経歴もまた注目を浴びた。彼は東北福祉大学を卒業後、青年海外協力隊員として南部アフリカのジンバブエで野球普及活動に取り組んでいたのだ。
そのジンバブエだが、その名を知っている人は少ないだろう。国際政治に詳しい人なら、独裁政権の下、経済が破綻し、15年ほど前には年220万パーセントというハイパーインフレを経験した国として知っているかもしれない。そんなジンバブエという国で野球が行われていることじたいピンとこないが、この国の野球には日本人が大きくかかわっている。
アメリカ人による伝来
もともとこのジンバブエという国は、北隣にあるザンビアと共に「ローデシア」と呼ばれたイギリスの植民地であった。第二次世界大戦後、現地の黒人による独立運動が盛んになる中、1965年に南ローデシア植民地政府首相のイアン・スミスによって白人政権のローデシア共和国が独立宣言を行う。しかし、人種隔離を方針とするこの政府は国際社会に認められることはなかった。
野球がこの地に伝わったのはこの頃のことと推測される。「推測される」というのは明確な記録がなく、現在残る野球やソフトボールの大会のトロフィーなどのうち一番古いものがこの年代を記録していることからこの時期がジンバブエにおける「野球事始」だと考えられるのだ。
野球を持ち込んだのは、アメリカからの宣教師やミッション団体で、その現実は現地の人々に伝えるというよりも、自らの余暇としてプレーしていたというのが本当のところだと思われる。
白人国家「ローデシア」は、すべての人種・民族に開かれた選挙を経て、1980年にジンバブエ共和国となってその独立を国際社会から認められるが、旧英領ということもあり、サッカー人気が席巻する中、野球は細々と行われるに過ぎなかった。
きっかけはバルセロナ五輪
そんなジンバブエ野球を変えるきっかけとなったのはオリンピックだった。1984年のロサンゼルス大会で公開競技としてトーナメントが行われた野球は続くソウル大会でも公開競技として採用。そして1992年のスペイン・バルセロナ大会でついに正式種目として採用される。正式なメダル競技となったことにより、野球はそれまで普及が進んでいなかった国・地域においても注目を集めるようになるが、そのバルセロナ大会に足を運んだのが、前年に発足したジンバブエ野球ソフトボール協会会長だった。この時、銅メダルを獲得した日本代表チームの統率の取れた動きに感銘を覚えた会長は、指導者の派遣を日本側に要請。これを受けて青年海外協力隊のいわゆる「野球隊員」が派遣されるようになった。堤監督が、ジンバブエの土を踏んだのは、日本による普及活動が始まって3年目の1995年のことであった。
「ジンバブエに野球場を」ある日本人篤志家の夢
日本の青年海外協力隊による野球普及活動が始まった1992年、ジンバブエでは首都ハラレでアフリカ4か国による国際大会が開かれた。ジンバブエはこの大会でシニア、U18の両部門で銀メダルを獲得したが、その実態は絶対的王者の南アフリカ共和国が金メダルを独占し、後の2か国はガーナ、ナイジェリアというジンバブエ以上に野球の歴史の浅い国相手の大会だった。そして何よりも、この頃のジンバブエにおける野球は、人口の5%にも満たない白人層の「エリートスポーツ」だった。協力隊は、野球普及には圧倒的多数派の黒人への普及が先決と考え、まずは首都ハラレや南部の都市ブラワヨ周辺の町や村をバットとボールを携えて巡った。
この活動を知って、このジンバブエに野球専用球場を建てようという壮大な夢を抱いた人物がいた。「国際大会」が開かれるといっても、その現実は普通のグラウンドを急ごしらえの野球場にしたものに過ぎなかった。社会人実業団でのプレー、指導経験をもつこの人物によって立ち上げられた「ジンバブエFOD(フィールドオブドリームズ)委員会」の活動は実を結び、各所から集まった募金により、1998年、ついに野球専用球場、「ハラレ・ドリームパーク」が完成した。
FOD委員会は、その後、ジンバブエ野球に継続的な援助をすべく「ジンバブエ野球会」に改組。現在に至るまで、支援活動を継続している。
ついに誕生した「ジンバブエ初のプロ野球選手」
ジンバブエ野球会の支援活動の中から、ついにプロ野球選手が誕生する。
2004年、ジンバブエ野球会のはたらきかけもあり、創設者の出身校であった関西学院大学の創設者ウォルター・ラッセル・ランバス生誕150年記念事業としてジンバブエナショナルチームの招聘が行われたのだが、この時のチーム主砲であったシェパード・シバンダは、2005年オフに、この年発足した日本の独立リーグのトライアウトを受験、見事これに合格したのだ。そして2006年から3シーズン、彼は日本の独立リーグでプロ選手としてプレーすることになる。
彼が四国アイランドリーグの香川オリーブガイナーズでの2シーズンとBCリーグの福井ミラクルエレファンツでの1シーズンで残した数字は、86試合202打席184打数33安打というものだったが、ホームランも両リーグで1本ずつ放っている。その後、ジンバブエから「プロ野球選手」は出現していないが、日本のNGO、NPOの普及活動によって、西アフリカのブルキナファソ、東アフリカのウガンダ、ヒマラヤの麓にあるネパール、東南アジアのミャンマーなどから選手が独立リーグに挑戦している。
ジンバブエ野球の現在、そして未来
ジンバブエ野球は今どうなっているのか。
かつては南アフリカ共和国に次ぐ、ナンバー2にあったその地位もタンザニアなど様々な国への普及が進む中、低下気味であるし、やはり何といっても長らく続いた独裁政権が招いた経済の疲弊は、国民の目をスポーツに向けさせることを阻んでいる。そもそも「ジンバブエ初のプロ野球選手」も、それが目的であったわけでは決してなく、ジンバブエ野球会の支援が政情不安により困難になる中、現地への支援が不可能ならば、選手を日本へ招こうという発想から生まれたものであった。そして、金のかかる留学ではなく、「金をもらえる」独立リーグを選択したのである。
ジンバブエ初の野球場、ハラレ・ドリームパークもいつの間にか草が生い茂る原っぱと化してしまった。
しかし、6年前に独裁体制が解かれ、ジンバブエという国が復興に向かうとともに、ジンバブエ野球も上昇曲線を描こうとしている。荒れ放題のドリームパークも整備しなおされ、野球大会も催されるようになった。
そんなジンバブエにもうひとつ、野球場を作るのが堤監督の夢だ。この国第2の都市ブラワヨに2つ目の野球場を作るべく、堤監督は奔走しているという。2つ目の球場は「ドリームパーク」ではなく、「コウシエン」と名付けられるのだろうか。