元巨人・高木勇人もメキシカンリーグ入り。移籍先のベラクルス・アギラスとは?
3日、元巨人で昨年は独立リーグ・ルートインBCリーグの神奈川フューチャードリームズでプレーした高木勇人投手が、メキシカンリーグのエル・アギラ・デ・ベラクルス(英語名ベラクルス・イーグルス)に移籍することが発表された。
三重海星高校から社会人野球の三菱重工名古屋に進んだ高木は2014年秋のドラフトで3位指名を受け巨人に入団。1年目から先発ローテーション入りし、9勝を挙げた。しかし、その後成績は尻すぼみに終わり、2017年オフにはFAで移籍してきた野上亮磨の人的補償として西武に移籍。2シーズンプレーし、2019年シーズン後に30歳で戦力外通告を受けた。
現役続行を模索した高木は、メキシコ球界に活路を求め、2020年シーズンをレオーネス・デ・ユカタン(ユカタン・ライオンズ)でプレーすることにしたが、コロ禍でシーズンが中止。結局、BCリーグでプレーすることとなった。ユカタンとの契約は、そのまま翌2021年も継続されたが、開幕前に外国人枠の関係で破棄され、神奈川でのプレーを継続することになった。
独立リーグ2シーズンでの成績は23試合に登板した内、先発が9試合で2勝4敗・防御率5.98という上位リーグでのプレーを考えると厳しいものである。しかも昨年は未勝利に終わっている。それでもベラクルスは、世界第2のパワーハウスである日本のNPBでの経験を買い、先発ローテーションの一角を担う存在として期待しているという。
メキシコの「野球処」、ベラクルス野球の歴史
ベラクルスは、大西洋に面した港湾都市で首都メキシコシティの外港としての役割を果たしている。メキシコへの野球伝来ルートには複数のルートがあると考えられるが、ここもそのひとつである。そのため、野球が盛んで、過去には独立系のウィンターリーグも存在していた。現在は、ベラクルス都市圏ではサッカー、ベラクルス州の地方都市では野球というある種のすみわけが行われている。
この町の野球チームの歴史は、トッププロリーグ、メキシカンリーグ創設の1925年より早く1903年に遡る。この時誕生したクラブチーム「ロッホス・デル・アギラ(レッドイーグルス)」が、メキシカンリーグの拡大に伴って1937年に加入し、いきなり優勝。連覇を果たした翌1938年には、このチームに刺激されたのか、ベラクルス州から3チームが新たにリーグに加盟した。
1940年には、ベラクルス出身でタバコなどのビジネスで成功を収めたホルヘ・パスケルが、「アギラ」のチームカラーである赤に対抗して「アスレス・デル・ベラクルス(ベラクルス・ブルース)」を設立してメキシカンリーグに参入。自ら監督としてチームを優勝に導き、以後、メキシカンリーグの「ボス」として君臨することになった。リーグ会長に就任した1946年には、北米メジャーリーグから選手を引き抜きメキシカンリーグ黄金時代を現出した。しかし、この「野球戦争」はメジャーリーグの勝利に終わり、パスケルの失脚と共に、「アスレス」も1951年シーズンをもって消滅する。但し、このチームは、「ベラクルス」を冠してはいたものの、実際には、パスケルがリーグ参入2年目に買収したディアブロスロッホスと同じメキシコシティを本拠としていた。
一方のアギラは、アスレス参入の1940年シーズンは、別リーグに加入し、メキシカンリーグを脱退し、そのリーグと共に一旦消滅するが、翌1941年には復活する。しかしこのチームは1シーズンで買収され、「ペリーコス・デ・プエブラ」に衣替えすることになる。
アギラの復活は、1949年。1952年には3度目の優勝を飾ったものの、1957年に最下位に沈むとチームは同じ大西洋岸のポサリカに移転してしまう。それでも1年のブランクで復活したアギラは、1961年、70年に優勝杯を手にし、1973年まで15シーズンにわたってベラクルスに根を下ろした後、中央高原のアグアスカリエンテスに移転し、その名を「リエレロス(レールロードメン)」に変える。
その後、5代目(1981-85年)、6代目(1992-95年)のチームが立ち上がるが、低迷のため長続きせず、州政府などの支援を得て1999年に南部ベリーズとの国境の町、チェトゥマルのチーム、「マヤス」を買収し「復活」した7代目チームが、歴代最長の19年の長きにわたってベラクルスに根を下ろした。しかし、32年ぶりとなる2012年の優勝の後、不振に陥ると、2017年シーズン限りでヌエボラレドに移転し「テコロテス」とその名を改めた。
チームを失ったファンの落胆はチーム復活の気運につながり、2018年の冬のシーズンには、独立ウィンターリーグ「ベラクルスリーグ」に「ロッホス・デル・ベラクルス(ベラクルス・レッズ)」が誕生。そのユニフォームには鷲の翼が描かれた。
昨シーズン、メキシカンリーグは16球団から18球団に拡大したが、この際、ベラクルス球団は「エル・アギラ・デ・ベラクルス」として復活する。そのチームカラーはもちろん赤である。
メキシコでは、都市とチーム名は紐付けられるのが常である。したがって日本のように、大阪から福岡へ移転した「ホークス」の系譜をつなげることはなく、例えば、福岡にあった「ライオンズ」が埼玉へ移転したならば、別のニックネームに変え、「ホークス」が大阪から福岡へ移ってきたなら、「ライオンズ」と名乗ってその系譜をつなぐ。現在の「アギラ」はベラクルスをフランチャイズとした球団として8代目となるが、メキシコの野球ファンはそれらを同一のチームとみなすのだ。
ベラクルスでプレーした選手たち
アギラの本拠地球場は、町はずれにある1992年建造のエスタディオ・ベト・アビラ。この町出身でメキシコ生まれとして最初のメジャーリーガーとなり1296安打を放ったボビー・アビラにちなんでいる。昨シーズンは、BCリーグから元DeNAの濱矢廣大が移籍し、2試合に先発し1勝1敗の星を挙げている。
このチームでこれまでプレーした日本人は濱矢ただ一人だが、NPBでプレーした「助っ人」の数多くが、ベラクルスでプレーしている。
その筆頭として挙げられるのは、西武・オリックス・ソフトバンクで通算357本塁打を放ったアレックス・カブレラだろう。日本だけでなく台湾、メジャーでもプレーし、母国ベネズエラのウィンターリーグでは、捕手だった息子の対戦相手としてホームランを放ち、44歳になる2016-17年シーズンまでプレーした彼は、サマーリーグの最後となる2014年シーズンをここベラクルスで送っている。
ベネズエランと言えば、メジャーでレギュラーを張り、横浜やロッテでもプレーしたホセ・カスティーヨも日本球界を去った後、3シーズンをベラクルスで過ごしている。
地元メキシコ人では、楽天で2016年から3シーズンプレーした巨漢スラッガー、ジャフェット・アマダーも若手時代の2009年にここでプレーした。キューバ出身選手としては、2014年から3シーズンソフトバンクに在籍していたバーバロ・カニザレスは2017年シーズンのスタートをベラクルスで迎えている。
中南米の野球と言えば、ドミニカを外せないが、この国出身の元NPB選手にもベラクルスOBが複数いる。
2014年と翌年に中日でプレーしたリカルド・ナニータは来日前は典型的なジャーニーマン選手で、実に3ヶ国5チームでプレーした2009年にここで15試合に出場した。中日での彼の同僚だった投手でWBCのドミニカ代表歴もあるラファエル・ペレスもまたここで2014年にプレーしている。
ドミニカのカープアカデミーから2007年に広島入りし、メジャーや韓国リーグを経てメキシコ球界に身を投じたピッチャー、エスマイリン・カリダは、2015年シーズン開幕をベラクルスで迎えたが、トレードの後解雇され、BCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスで日本球界復帰を果した。
近年では、四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズからオリックス入りし、2012年から15年まで先発、セットアッパーとして活躍したイタリア人イケメン投手、アレックス・マエストリもまた、韓国リーグ、BCリーグを経て2017年にメキシコ球界入りし、ベラクルスの先発ローテーションピッチャーとして3勝8敗の星を挙げた。
以上、中南米唯一の夏季プロ野球リーグとしてメキシカンリーグは、ラテンアメリカの野球の中心的な役割を果たしている。基本的に北米でメジャー契約を結べなかった選手が集まる場所ではあるのだが、近年はメキシコ自体のプレーレベルも上がり、日本で才能を開花させられなかった選手がすぐに活躍できるような場所ではない。レベル的には、アメリカの3Aと2Aの間、アジアで言えば韓国と台湾の中間といったあたりだろうか。野球の質的には、かつては変化球投手中心で日本の投球スタイルに類似していた一方、国内産のホームラン打者が少なく、試合終盤にバントを命じられた2番打者がこれを決めることができずベンチで暴れるなどオフェンス面が弱かった印象だが、現在では投手も150キロ台は当たり前、国内産の大砲も育ち、手堅い攻撃もしっかりできるようになっている。それでも日本人選手にとって一番の課題は、日本とは全く違うメキシコの習慣だろう。高木はじめ日本人選手には、まずはメキシコという国に慣れ、自分のパフォーマンスを最大限発揮できるようにコンディションを整えて欲しい。
(キャプションのない文中の写真は全て筆者撮影)