関ヶ原合戦において、豊臣秀頼は徳川家康に敗北したわけではなかった
前回の東京都知事選は、各政党がそれぞれの候補を推薦(あるいは自主支援)し、入り乱れて戦った感がある。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦も同じく、各勢力が入り乱れて戦ったが、決して豊臣秀頼は徳川家康に負けたわけではない。その点を確認することにしよう。
ことの発端は、同年7月に発せられた「内府ちかひ」の条々である。この条々は前田玄以ら三奉行が署名したもので、内容は家康の非道を列挙し、諸大名に決起を呼び掛けたものである。
その結果、毛利輝元、石田三成、宇喜多秀家らが中心となり、反家康の西軍が結成された。対するのは、家康が率いる東軍である。重要なのは、ともに秀頼への奉公を説いていたことだろう。
同年9月15日、関ヶ原で東西両軍が雌雄を決することになったが、開戦前から東軍の勝利は確定していたといってもよい。合戦の前日、毛利氏は家康と和睦し、その軍門に降っていた。小早川秀秋も同じである。
また、主力の宇喜多氏は、前年末以降の宇喜多騒動により重臣らが出奔し、家中が弱体していたので、軍勢を牢人で賄わなくてはならなかった。島津氏も兄弟の仲違いで、十分な軍勢を派遣することができなかった。
その結果、東軍は約75,000の軍勢で戦いに臨んだが、西軍の軍勢は結果として約30,000しかいなかったという。もともと西軍は80,000の予定だったが、すっかり見込みが違ったのである。
こうして家康は西軍に勝利したが、西軍の諸将が大坂城に陣取ったこともあって、秀頼は家康に負けたとの誤解がある。戦後、秀頼は摂津、河内、和泉の3ヵ国の領有にとどまったが、家康に戦いで敗北したわけではない。
家康は西軍が決起した際、自身の書状に「石田三成と大谷吉継が逆心した」と記しており、秀頼が首謀者であるとみなしていない。あくまで敵は、毛利、宇喜多、石田らの西軍を率いた面々だった。
また、戦後の家康の書状には、「大坂城を攻め落とすこともできるが、秀頼様がいらっしゃるので、それは遠慮しておきたい」とし、輝元との交渉に臨んだ。これも、秀頼が首謀者とみなされていない証拠だろう。
家康が東軍を率いて、西軍と戦ったのは、あくまで豊臣政権を支える五大老の1人という立場からだった。したがって、秀頼は関ヶ原合戦には関与しておらず、ましてや西軍の首謀者とみなされていなかったのである。