【戦国時代】じつは武田信玄に手痛い黒星を与えたことがある3人の武将!その並外れた軍才とは?
名だたる戦国大名たちの中でも“武田信玄”といえば、最強論議には必ず名が挙がってくるほどの名将です。
昨年の大河ドラマ“どうする家康”では阿部寛さんが演じ、三方ヶ原の戦いでは恐怖の象徴として、徳川軍が撃破されてしまうシーンも描かれました。
しかし、そんな信玄もつねに連戦連勝だったわけではなく、その人生では手痛い敗北や、超えられない壁も経験しているのです。
そうまでさせた相手も当然ただ者ではありませんが、この記事では武田家の前に立ちはだかった3人の戦国武将を、その具体的なエピソードもまじえて、ご紹介したいと思います。
①【北条氏康(ほうじょう・うじやす)】~あわや討ち死にの大ピンチ!~
桶狭間の戦いで弱体化した今川家に、武田軍が攻め込んだ史実は、ご存知の方も少なくないでしょう。しかし、この一連の戦いにおいて信玄が、いちど挫折を味わっていることは、ご存知ない方も多いと思います。
さて、もともと武田家と今川家は、北条家も加えた3勢力で互いに政略結婚し、同盟を築いていました。しかし今川義元が信長に討たれて勢力が弱体化すると、その機を突いて攻め込んだのが、武田信玄です。
世にいう“駿河侵攻(するがしんこう)”。武田勢の軍事力は圧倒的で、しかも西からは徳川軍も挟撃の形で攻め込んで来たのですから、今川家はひとたまりもありません。領内の城は次々と陥落させられ、本拠地の駿府も落ちました。
しかし、これを知って激怒したのが、娘を今川家に嫁がせていた北条氏康です。
「おのれ信玄。同盟を破ったばかりか、この好き勝手ぶりは許せぬ」
息子の氏政を総大将に大軍を編成して出陣させると、この北条軍の本気度はすさまじく、武田勢を慌てさせます。
各地で様々な戦いや駆け引きが行われますが、武田と徳川の連携は乱れ、逆に北条・今川連合軍は巧みに立ち回り始めました。
そうこうするうち信玄は本拠地への退路まで絶たれ、このままでは今川攻めどころか、自身が討ち死にしかねない戦況にまで追い込まれたのです。
通常であれば進軍に使わない山道を切り拓き、侵攻を断念して甲斐の国へ、あわてて引き上げて行きました。ちなみに、このエピソードは通称“信玄の樽峠(たるとうげ)越え”と呼ばれています。
武田信玄には“甲斐の虎”という異名がありますが、おなじ虎の名を冠する“相模の獅子”と呼ばれる北条氏康も、その実力は伊達ではありませんでした。
この一連の戦いで、今川家当主の氏真は北条家の庇護下に入り、旧今川領の一部には北条軍が駐留したため、武田家はうかつに手が出せない状況となりました。
もし氏康にさらなる野心があり、そのまま今川領を吸収して勢力拡大を目指していたら、歴史は大きく変わっていたかも知れません。
※この時期、北条家の家督は氏政に譲られていましたが、氏康も健在で影響力を持っていたことから、この項目では信玄VS氏康と表現しています。
②【村上義清(むらかみ・よしきよ)】~破竹の武田家に“待った!”~
前述の北条氏康が信玄をピンチに追いやったのは、大局的にみれば駿河侵攻の1回だけと言えます。しかし、1度ならず2度までも煮え湯を飲ませた武将がおり、それが村上義清という大名です。
武田家が信濃の国で勢力拡大していた時に激突したのですが、武田軍8千VS村上軍5千(※上田原の戦い)という兵力差にも関わらず、形勢は村上家へ傾きます。
ついには武田勢は本陣まで切り込まれ、武田四天王と称された猛将のうち2人までもが、討ち死にしてしまったのです。
このとき武田家は連戦連勝を重ねていた時期だったので、その勢いを完全にくじいた形でした。
これを受けて信玄は「それならば!」と、今度は村上軍にとって“急所”ともいえる地に建つ“砥石(といし)城”の攻略に着手しますが、村上義清の援軍が予想外のタイミングで現れ、まさかの返り討ちにあって敗北。
一般的に村上義清は、あまりメジャーな武将ではありませんが、その軍才は並外れていたと言えるでしょう。
この後、けっきょく信玄は策略を用いて村上家を敗北に追い込んでいますが、裏を返せば正面から撃破するのは至難と考えた証です。
強力な兵馬で“侵略すること火の如し”の実践だけが戦術ではないと、このとき信玄は学んだのかも知れません。
③【長野業正(ながの・なりまさ)】〜立ちはだかる鉄の壁〜
戦国時代の関東地方にあって、“甲斐の虎”や“相模の獅子”と並んで“上州の黄斑(※虎のこと)”という2つ名を冠した人物が、 長野業正という武将です。
彼自体も猛将ですが、その麾下には“剣聖”と呼ばれた上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)という名将もいました。
その剣術は日本随一で、彼に試合を申し込んだ達人が一撃を加えようとした刹那、相手が手にしていた木刀を素手で奪ったという言い伝えがあります。しかも相手は何故か尻もちをついており、その技術はまさに神技ともいえる領域に達していたのです。
そんな長野氏が居を構えていたのが、今でいう群馬県にあった箕輪城(みのわじょう)ですが、上杉家や北条家の領地とも接する要衝であり、そこへ武田信玄の軍勢が攻め込んできました。
しかし、その攻撃にも頑として揺るがず、武田家もあきらめずに6回(※諸説あり)にも渡り侵攻を試みるも、これを撃退しました。
これには流石の信玄も「あやつがおる限り、あの地には手を出せぬわ」と嘆いたという言い伝えがあります。
その言葉通り、 長野業正の存命中は本当に鉄壁でしたが、彼が死去して息子の代になると、信玄は再び攻略を試みます。そして調略も交えて巧みに締め上げ、ついには陥落させて手中に収めました。
ここまで来ると信玄の執念も見事ですが、長野業正という武将の存在がいかに大きかったかを、伺い知ることが出来ます。
紆余曲折の生涯
武田信玄のライバルといえば、多くの方がまっ先に上杉謙信を挙げると思います。しかし、実際は彼以外にもこれほどしのぎを削った武将も、存在していた事実があります。
今回のテーマ上、信玄が撃退された合戦にばかりフォーカスしてきましたが、裏をかえせば、これほどの猛将・智将がひしめく地方で、武田家は勢力の大幅な拡大に成功しているのです。
あらためて武田信玄がどれほど優れていたか、その証明になるとも言えるでしょう。もちろん戦国ファンであれば、川中島の合戦などの有名な戦いには心躍りますが、強敵は決して上杉家だけではありませんでした。
“武田信玄=最強レベルの武将”。その評価の裏には、ときには敗れて悩み、試行錯誤を重ねて勝ち抜いた人生があったことも、ご記憶いただけましたら幸いです。