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<朝ドラ「エール」と史実>作詞者と取材旅行まで…古関裕而・最初のヒットは「船頭可愛いや」でなかった

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
加藤洲十二橋の光景。2020年8月筆者撮影。

「船頭可愛いや」の大当たりにより、ついに人気作曲家の仲間入りを果たした裕一。ヒットを求めて四苦八苦した時代は、ようやく終わりを告げました。これもおおむね、古関裕而の実話にもとづいていますが、気になる改変もないではありません。

そのひとつは、「利根の舟唄」のエピソード。古関は、「船頭可愛いや」の前年にこの歌でヒットを当てて、すでに一定の地位を確保していたのです。そしてその作詞者も、高梨一太郎のモデル・高橋掬太郎でした。

「十二橋と水郷地帯を隅々まで見て回った」

1934年。なんども契約解除の危機に遭って焦っていた古関は、4月ごろ、コロムビアの作家室で声をかけられました。「どこか取材旅行してヒット・ソングを作ろう」。それが作詞家の高橋でした。高橋も「酒は涙か溜息か」でヒットを出したあと、勤務先の新聞社を辞めてコロムビアの専属になっていました。ヒットを求める気持ちは、古関に負けず劣らず強かったのです。

ふたりは相談した結果、水郷で有名な茨城県の潮来に日帰りで行くことに決めました。当時は直通の電車がなかったので、まず土浦に向かい、そこから水路で霞ヶ浦を渡航。たどりついた潮来は、いまのように観光客もおらず、ひっそり静まり返っていたといいます。

霞ヶ浦を渡る風に吹かれながら、湖岸の風物をながめたりして潮来の町で下船した私たちは、ひっそり静まり返っている町を歩いた。現在と違って観光客はほとんどいなく、淋しい町だった。

そこから船を雇って娘船頭さんの竿さばきで出島、十二橋と水郷地帯を隅々まで見て回った。佐原の町で下船した後帰京した。私は初めての潮来であり、ことに十二橋をくぐるたびに小さな水路から突然船が出てきたりしたのには驚かされた。まだ、あやめの季節には早かったが、木々の新芽も美しく、純農村地帯、特に米産地として有名なこの地方の風物に何か引かれるものがあった。高橋さんも盛んにメモを取っており、大いに収穫があったらしい。

出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』

なんと絵になる光景ではありませんか。筆者も先日、潮来の十二橋めぐりをしてきました。いまは護岸されて、小さな水路はほとんど塞がれていましたが、ここが古関と高橋も通った水路かと思うと、なかなか感慨深いものがありました。ドラマで採用されなかったのは残念でなりません。

「利根の舟唄」ヒットで3年契約に

このような取材をもとにして作られた「利根の舟唄」は、1934年8月新譜でリリースされるや、古関にとって初のヒット曲となりました。

翌年5月には、古関の専属契約もそれまでの1年ごとから3年ごとに改められました。レコード会社にとっても、手放したくない人材になったということです。これは「船頭可愛いや」のリリースよりも前のこと。ですから、「利根の舟唄」も、「船頭可愛いや」に負けない、ヒット曲だったことがわかります。

古関は取材旅行をメロディーに活かすことが得意でした。戦時中のヒット曲である「露営の歌」も「暁に祈る」も「若鷲の歌」も、すべて戦地訪問や部隊見学などが参考になったといいます。放送再開後は、このようなエピソードがちゃんと生かされているかどうか、注目していきたいと思います。

なお、「船頭可愛いや」については、もうひとつ見逃せない点があります。それは、藤丸のレコードはヒットせず、双浦環のレコードはヒットしたというものです。これも事実と異なります。じつは「船頭可愛いや」は、(双浦環のモデルである)“三浦環ナシ”でもしっかり大ヒットしていたのです。これについては以前書いたので、下記の記事をご覧ください。

<朝ドラ「エール」と史実>「私の魂は底知れぬ泥ぬまの中に」三浦環の“危なっかしい”留学と恋愛の真相

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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