<朝ドラ「エール」と史実>作詞者と取材旅行まで…古関裕而・最初のヒットは「船頭可愛いや」でなかった
「船頭可愛いや」の大当たりにより、ついに人気作曲家の仲間入りを果たした裕一。ヒットを求めて四苦八苦した時代は、ようやく終わりを告げました。これもおおむね、古関裕而の実話にもとづいていますが、気になる改変もないではありません。
そのひとつは、「利根の舟唄」のエピソード。古関は、「船頭可愛いや」の前年にこの歌でヒットを当てて、すでに一定の地位を確保していたのです。そしてその作詞者も、高梨一太郎のモデル・高橋掬太郎でした。
「十二橋と水郷地帯を隅々まで見て回った」
1934年。なんども契約解除の危機に遭って焦っていた古関は、4月ごろ、コロムビアの作家室で声をかけられました。「どこか取材旅行してヒット・ソングを作ろう」。それが作詞家の高橋でした。高橋も「酒は涙か溜息か」でヒットを出したあと、勤務先の新聞社を辞めてコロムビアの専属になっていました。ヒットを求める気持ちは、古関に負けず劣らず強かったのです。
ふたりは相談した結果、水郷で有名な茨城県の潮来に日帰りで行くことに決めました。当時は直通の電車がなかったので、まず土浦に向かい、そこから水路で霞ヶ浦を渡航。たどりついた潮来は、いまのように観光客もおらず、ひっそり静まり返っていたといいます。
なんと絵になる光景ではありませんか。筆者も先日、潮来の十二橋めぐりをしてきました。いまは護岸されて、小さな水路はほとんど塞がれていましたが、ここが古関と高橋も通った水路かと思うと、なかなか感慨深いものがありました。ドラマで採用されなかったのは残念でなりません。
「利根の舟唄」ヒットで3年契約に
このような取材をもとにして作られた「利根の舟唄」は、1934年8月新譜でリリースされるや、古関にとって初のヒット曲となりました。
翌年5月には、古関の専属契約もそれまでの1年ごとから3年ごとに改められました。レコード会社にとっても、手放したくない人材になったということです。これは「船頭可愛いや」のリリースよりも前のこと。ですから、「利根の舟唄」も、「船頭可愛いや」に負けない、ヒット曲だったことがわかります。
古関は取材旅行をメロディーに活かすことが得意でした。戦時中のヒット曲である「露営の歌」も「暁に祈る」も「若鷲の歌」も、すべて戦地訪問や部隊見学などが参考になったといいます。放送再開後は、このようなエピソードがちゃんと生かされているかどうか、注目していきたいと思います。
なお、「船頭可愛いや」については、もうひとつ見逃せない点があります。それは、藤丸のレコードはヒットせず、双浦環のレコードはヒットしたというものです。これも事実と異なります。じつは「船頭可愛いや」は、(双浦環のモデルである)“三浦環ナシ”でもしっかり大ヒットしていたのです。これについては以前書いたので、下記の記事をご覧ください。