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実は戦前も「対戦相手を圧倒」! 慶應義塾の応援歌「若き血」と塾歌…その作者たちの知られざるエピソード

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(写真:岡沢克郎/アフロ)

今夏の全国高校野球選手権大会では、慶應高校が優勝しました。

そこでテレビ中継などで注目されたのが、同校の応援歌「若き血」と慶應義塾塾歌です。実はこの応援歌、戦前も対戦相手を圧倒していたのです。

以下では、その知られざるエピソードを紹介します。

■対戦相手に新しい応援歌を作らせる

応援歌「若き血」は、1927(昭和2)年の早慶戦で登場した慶應の応援歌です。

作詞・作曲したのは堀内敬三。浅田飴の御曹司で、米国ミシガン大学、マサチューセッツ工科大学大学院に進んだ理系エリートでしたが、この「若き血」がたいへんな評判になったことで、音楽家の道に進むことを父に認められたというエピソードをもっています。

実際、「若き血」の威力は絶大でした。

その登場以降、早稲田は早慶戦で苦戦を強いられたのです。そこで「ぜひ新しい応援歌を」ということになり、1931(昭和6)年につくられたのが、早稲田の有名な応援歌「紺碧の空」(作詞は住治男)です。

この「紺碧の空」を作曲したのが、当時作曲家としてデビューまもない古関裕而でした。

その頃早大では、いつの早慶戦にも慶應の"若き血に燃ゆる者――"の歌声に押されて意気が上がらないので、このへんで新しい応援歌を作ろうということになり、歌詞を早大全学生から募集した(古関裕而『鐘よ鳴り響け』)。

 早稲田側の証言も引いておきましょう。

私たちが入学した昭和の初め、慶應野球部は腰本監督を擁して、文字どおり黄金時代。ことに「若き血に……」の応援歌はいかにも力強く歌われ、慶應の応援を光彩陸離たるものにしていた(高山三夫「「紺碧の空」誕生記」『早稲田学報』814号)。

古関裕而は、数年前、NHKの朝ドラ「エール」で主人公のモデルとなりました。スポーツ音楽の名手として知られ、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」、東京五輪の「オリンピック・マーチ」なども手掛けています。

そんな活躍も、「若き血」の成功がなければ、見られなかったかもしれません。

なお、堀内敬三は作曲だけではなく、作詞も盛んに手掛けた才子でした。また太平洋戦争の直前には、国策による音楽雑誌の統合により生まれた音楽之友社の社長も務めています。

■あの鎮魂歌の作曲者と同じ

そのいっぽうで、現行の慶應義塾塾歌は1941(昭和16)年1月10日の福沢諭吉誕生記念会に制定されました(完成は前年)。太平洋戦争開戦の年です。

作詞者は当時文学部講師だった富田正文、作曲者は信時潔です。

信時潔は、山田耕筰と一歳違いの作曲家です。弟子の團伊玖磨から「現代なら、セクハラで社会から葬られてる」と言われるほど女性関係が派手で下ネタも好きだった山田耕筰と対照的に、朴訥な人物として知られました。

東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)に長く勤め、同校に作曲科を設立することにも尽力しています。

かれの代表作は、日中戦争の初頭に作られた「海ゆかば」でしょう。もともとは日本放送協会(現在のNHK)の戦意高揚キャンペーンのためにつくられたものでしたが、現在では鎮魂歌として知られています。

もっとも、戦争協力はかれだけではありません。堀内敬三だって軍歌をつくっていますし、古関裕而も山田耕筰も同じです。この時代に生まれた音楽家の宿命だったのでしょう。

■国分寺駅の発車メロディーにも

信時潔はまた1964(昭和39)年、慶應の幼稚舎設立90年に際して「福沢諭吉ここにあり」(佐藤春夫作詞)という歌の作曲をしています。それ以外にも学習院の院歌、岩波書店の歌や日立製作所の社歌などを作曲しています。

なお、東京のJR国分寺駅の発車メロディーは、信時潔作曲の「電車ごっこ」だったりします。これは、信時が国分寺市で半生を過ごしたためです。「代表作だから」が理由のようですが、さすがに「海ゆかば」というわけにはいかなかったのかもしれません。

いずれにせよ、今日この日、慶應義塾塾歌があらためて信時の代表作のひとつとして印象づけられたのは間違いありません。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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