映画『ある沈黙』。告発を全面肯定する風潮の中で、「沈黙」の意味を考える
フランス語の原題は『Un Silence』、英語のタイトルが『A Silence』となっていたので、日本語訳は『ある沈黙』でいいだろう。
ベルギー映画で、同国を揺るがせた有名な凶悪犯罪中のエピソードがヒントになっているが、「ああ、実話だったのね」と思うくらいであまり関係がない。かなり脚色されているし、事件のことを知らなくても鑑賞にはまったく支障がない。
■監督会見で起きたある論争
そんな凶悪事件や実話なんてことよりも面白いのは、この作品で、ある論争が起きていたことだ。
昨年のサン・セバスティアン映画祭の会見で、監督と記者たちの意見が分かれた。
争点は、
悪事を知っていて沈黙を守っていた人は、共犯者か否か?
監督の意見:共犯者ではなく被害者。弱い立場にあり、沈黙を余儀なくされていたから。
記者たち:共犯者。豊かで平穏な生活という利益と引き換えに悪事に目をつむっていたから。
あなたはどう思いますか?
監督がこの作品を通じて言いたかったのは、詰まるところ、「勇気を持って告発しましょう!」だと思う。
辛い気持ちはわかる。沈黙した事情も汲む。でも、今からでも遅くない。告発しましょう、と。
これ、被害者への働きかけとしては、一理ある。
■勇気ある告発者を応援する風潮
私の住むスペインでは、ある組織からの数十年前の被害を告発する動きが盛んになっている。実名を出し素顔をさらしてマスメディアに登場し、被害を訴えることは、「勇気ある行動」と称賛されている。
告発にはもちろん批判もある。
なぜ、その時に告発しなかったのか? なぜ、何十年も前のことを今さら蒸し返すのか? 売名や賠償金目的ではないか?……などなど。
しかし、被害者には沈黙の事情があった。「当時は未熟で、被害という認識がなかった」とか「自分の責任だと思い込み、加害者に怒りが向かわなかった」とか、だ。
ここで例示しているような「ある組織」による悪事――被害者多数で、彼らの人生を狂わせた大変な犯罪――については、何十年経っていようが風化させるべきではない。
加害者がすでに他界している場合も少なくないのだが、告発には再発防止という意義がある。
しかし、だ。
この作品、『ある沈黙』で、沈黙していたのは被害者ではない。
悪事を知りながら黙っていたのは、加害者に近しい人だ。知人レベルだったら縁を切って告発する、ということもできたかもしれない。
だけど、利害関係のある人だったらどうか?
私はその人の名声や富のお陰で贅沢な生活を満喫している。私が訴えたら、私のゴージャスな衣食住ともサヨナラだ。“ここは黙っているのが賢い”という計算が働いたとしたら……。
こんな書き方をすると「共犯者だ!」という声が上がるに違いない。
これ、書きようなんだよね。
■加害を見て見ぬフリの人は?
例に挙げた「ある組織」については、組織的な隠ぺいが行われたとされる。
保身もあったし上司への恐怖もあったが、周りの見て見ぬフリが習慣化していた。それが加害を隠蔽し被害を拡大したことには疑いがない。
こういう、組織的隠ぺいの片棒を担いだ沈黙者は「共犯者」という認識でいいだろう。
だけど、この作品の沈黙者は組織内の人ではない。
加害者の人生が崩壊すると自分の人生も崩壊する、という「運命共同体」の一員であり、同時に、加害者に経済的、社会的に従属している弱者でもあった。
先の監督の言い分もわからないことはないのだ。
とはいえ、私の鑑賞後の感想は「やっぱり悪い」だった。
情状酌量の余地はあるし、人間としての弱さもわかるけど。
みなさんの感想はどうだろう?
告発を全面肯定する風潮の中で、「沈黙」の意味を考えるのに、ちょうど良い作品だと思う。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭