パレスチナ:どうしてもガザから出たいならそうする方法はある
2023年10月7日の「アクサーの大洪水」作戦以来、ガザ地区は封鎖されて日常生活どころか生命維持に必要な資源の入手もできなくなった上、連日イスラエル軍の攻撃にさらされて多数が死傷している。また、同地区に住むパレスチナ人が外部に出ることは極めて難しい。その理由は、別稿で紹介したとおり、パレスチナ人が外国へと出ていこうとしてもそれを押し返そうとする様々な制約と、祖国や生業・家財を守るためにパレスチナに留まり続けようとする決意や信念が同地を出ていこうとするパレスチナ人を引き留める要素として働き、彼らの越境移動に影響しているからだ。これは、通常の移民・難民の越境移動のメカニズムで働く「プッシュ要因、プル要因」とは反対の作用をする「逆プッシュ要因、逆プル要因」と呼んでもいいくらいのものだ。それでも、ガザ地区の人道状況が壊滅的に悪化した後の2023年11月1日、同地区とエジプトとを結ぶラファフの通過地点を経由して外国籍の保持者と重傷者が域外に出ることが可能になった。だが、この措置のおかげでガザ地区から出ることができた者たち、あるいは今後出ることができる者たちは全体から見ると極めて少数だ。また、エジプトをはじめとするアラブ諸国は、様々な事情とこれまでの経緯のためこれ以上パレスチナ人を自国に住まわせるつもりがないので、イスラエルの政治家の一部が主唱する「パレスチナ人の強制移住」を断固拒否することで一致している。つまり、パレスチナ人、特にガザ地区のパレスチナ人が望もうが望むまいが、彼らが同地区から他所へ移転することはこれまでも、そしてこれからも非常に難しいということだ。
しかし、規制や制約があれば、その抜け道や例外があることも事実だ。イギリスの『ガーディアン』紙は、ガザのパレスチナ人らが「世話役」に巨額のわいろを支払って同地区からの脱出を試みている件について調査記事を掲載した。本稿では、『ガーディアン』紙を基にした2024年1月8日付『クドゥス・アラビー』紙(在外のパレスチナ人が経営する汎アラブ紙)の報道から、パレスチナ人の脱出の試みを紹介したい。
ラファフ経由でガザ地区から出ようとする者は、必然的にエジプトに入国することになるので、エジプト側でガザからの出域、エジプトへの入国が認められる者の名簿に氏名が掲載されなくてはならない。名簿に掲載されるには、上記の通り外国籍を持っているか治療などの特別な事由が必要な模様だが、長年カイロを拠点とする「世話役」のネットワークが、この規制をすり抜ける経路となってきた。「世話役」たちは、ラファフの通過地点を管理するエジプトの情報機関と関係すると称する者たちで、「アクサーの大洪水」作戦以前は1人当たり500ドル程度の「調整手数料」でパレスチナ人のガザからの出域を可能にしてきたそうだ。この「調整手数料」が、「アクサーの大洪水」作戦以後急騰している。その理由が何なのかは記事には明記されていないが、例えば欧米諸国に住みそこで経済的に成功したパレスチナ人が家族を脱出させるために費用負担を厭わない場合や、「世話役」たちがそのような人々の窮状や心理に付け込んで暴利を貪っている場合が考えられる。こうして、規制をすり抜けてガザ地区から脱出するための「調整手数料」は、1人当たり5000ドル~1万ドルにまで値上がりしている。記事にはアメリカ在住で妻子をガザ地区から脱出させようとしているパレスチナ人が登場しているが、この人物は9000ドルを支払った上に3000ドル追加請求されたものの、いまだに妻子の脱出は実現していないそうだ。同人は、地獄から脱出しようとする者を搾取しガザの人々の血でひと儲けしようとしていると述べて、「世話役」への不満をあらわにした。
高額の「調整手数料」は、現金で支払われることもあれば、欧米諸国在住の仲介者を通して支払われることもある。「調整手数料」を用立てるために、集団で資金集めに乗り出す者もいるそうだ。「世話役」たちはガザ地区から出ようとする者たちに、「たくさん払うほど早期にガザ地区から出ることができる」と言っているとのことだ。
ガザ地区の住民を含むパレスチナ人民について、「戦争や抑圧からさっさと逃げればいいじゃない」と考えたり呼びかけたりすることは、上で挙げた「逆プル要因」に配慮しない無神経なことだ。しかし、それと同時に、「逆プッシュ要因」によってパレスチナ人民に科される制約を利用して、越境移動を試みるパレスチナ人からあこぎにお金を搾り取ろうとする営みも存在していることも明らかだ。「逆プッシュ要因」は、パレスチナ人民、特にパレスチナ解放武装闘争を担ってきた様々な組織やその指導者たちの振る舞いに起因するものでもあるので、これから生じる制約を不当なものとみなし、それを科す当事者を非難すればそれで済むというわけでもない。このところ、パレスチナやその問題について「初歩から」とか「わかりやすく」とか話したり書いたりすることを期待される場面が多いのだが、本気でそうすることは本稿のようなお話にも触れざるを得ない憂鬱な作業である。