【大河ドラマ鎌倉殿の13人】北条泰時の知られざる初陣ー攻めたのは比企一族ー
北条泰時が「否応なしに武将としての働きを求められたのは生涯に二度ー和田合戦と承久の乱ーあった」(上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館、1958年)とされますが、泰時が出陣したのは、和田合戦(1213年)以前にもありました。
それは、建仁3年(1203)9月のこと。北条氏と比企一族との対立が激化した時でした。比企能員は、自らの娘(若狭局)を鎌倉幕府二代将軍・源頼家の側室としていました。そして若狭局は頼家の子・一幡を産んでいたのです。
比企氏が将軍家の外戚として今後更なる権力を持つ可能性が出てきたのです。北条政子が頼家と実朝を産んでいたとは言え、これは北条氏にとっては脅威でした。
そこで、北条時政(泰時の祖父)は、比企一族を追い落とすべく攻勢をかけます。時は、頼家が重病で臥せっている時でした。『吾妻鏡』によると、時政は比企能員を自邸に誘き出し、殺害したと言います。その直後、比企一族を追討せよとの北条政子の命令が出されるのです。
比企一族の人々は、一幡を擁して「小御所」に籠っていました。そこに「江間四郎」(北条義時)、「太郎」(泰時)、畠山重忠、和田義盛らの大軍勢が攻めかかるのです。比企一族の必死の防戦により、幕府軍は苦戦することもありましたが、大軍ということもあり、最終的には勝利。比企氏は族滅させられたのです(比企能員の変)。
この戦で泰時がどのような行動をしたかは不明ですが、初めての戦で、泰時は何を感じたのでしょうか。