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第一回ブラジル移民船「笠戸丸」が出航 移民手続きの建物は第一回芥川賞の舞台と気象台の仮庁舎に

饒村曜気象予報士
神戸港移民乗船記念碑(ペイレスイメージズ/アフロ)

第一回ブラジル移民船「笠戸丸」が109年前の明治41年(1908年)4月28日に神戸を出港しています。

笠戸丸

昭和50年に北原ミレイが歌ってヒットした「石狩挽歌(作詞・なかにし礼、作曲・浜圭介)」に、「沖を通るは笠戸丸」という一節があります。

神戸の気象台に残されている膨大な海上気象記録から、この一節は、昭和6年から7年にイワシ工船に改造され、北海道周辺で活路を見いだそうとしていた頃の「笠戸丸」と推測でき、数奇な人生を歩んだ主人公がオーバーラップしています。

「笠戸丸」は、元々は「ポトシ」といい、明治33年(1900年)にイギリスで、リパプール(イギリス)とバルパライソ(チリ)の間の航路用に建造されました。このため、多くの乗客を遠くまで運ぶことを意識した船で、排水量は約6200トン、航続距離が1万7000キロメートルもありました。

しかし、航路の需要が激減していたため、できたばかりの「ポトシ」は、ロシア義勇艦隊協会に売却され「カザン」と名前を変え、黒海に面したウクライナのオデッサと極東のウラジオストクを結ぶ航路に就航しています。

ロシア義勇艦隊協会は、国民から義援金を集めて船を買い、通常は商業航海、有事には1000人以上を収容する病院船として国に提供することを考えていました。

明治37年2月に日露戦争が始まると、「ポトシ」は病院船としてロシア艦隊とともに旅順港に入り、日本陸軍の攻撃で被弾・沈没し、病院船の任務を解かれています。

そして、旅順陥落後に引き上げられた「カザン」は、発音から「笠戸丸」と名付けられ、日本海軍の船となり、民間に有料で貸し出されます。

東洋汽船では、明治39年7月に海軍から使用料を払って借り、極東と南米を結ぶ航路に使っています。

そして、明治41年4月28日夕方、ブラジルへの最初の移民781名を載せて神戸港からブラジルのサントスに向けて出港しています(図)。

ブラジルの日系人約80万人の草分けです。

図 笠戸丸の航路(実線は往路、点線は復路)
図 笠戸丸の航路(実線は往路、点線は復路)

第一回移民船

「笠戸丸」は、5月9日にシンガポール、6月3日にケープタウンの2港だけに寄港し、6月19日サントスに到着しています。

1日6回(2時、6時、10時、14時、18時、22時)の海上気象観測によると、東シナ海を南下していた5月1日が風力7であった以外は、ほとんどが弱い風の中の航海であること、南シナ海を航行中の5月4日からインド洋のマダガスカル島近海に達する5月25日までは気温が一日中30度を超え、風の弱い暑さでかなり難渋したと思われます。

インド洋と大西洋を横切ってブラジル移民を運んだ「笠戸丸」は、その前年にもハワイやペルーへと、太平洋をとんぼ返りで移民を運んでいますので、かなり荒い使われ方でしたが、笠戸丸がブラジル移民を運んだのは、この時だけです。

明治42年12月になると、「笠戸丸」は、大阪商船が海軍から借用し、大改装をして台湾直行便となっています。神戸から門司を経由し、台湾の基隆を結ぶ花形の豪華客船になったのです。しかし、老朽化すると漁船となって北洋を転々とし、太平洋戦争末期にカムチャッカ半島付近でソビエト空軍の爆撃で沈没しています。

写真1 国立移民収容所として使われていた建物
写真1 国立移民収容所として使われていた建物

蒼氓

神戸でブラジル移民の手続きが行われのは、神戸市にある国立移民収容所で、第一回芥川賞の石川達三「蒼氓」の舞台です(写真1)。

石川達三は、昭和10年に同人誌「星座」に発表した「蒼氓」は、この年の芥川賞(第一回)を獲得していますが、この舞台が神戸の国立移民収容所です。

広辞苑によると、蒼眠は「人民。蒼生、たみぐさ」とあります。

昭和5年に全国から集まってきたブラジル移民達が移民船「ら・ぷもた丸」に乗るまでの8日間を描いたこの作品は、のちに船内の45日間を描いた「南海航路」、プラジルについてからの数日間を描いた「声なき民」とともに三部作となり、石川達三の代表的作品となっています。

三の宮駅から山の手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。…‥この道が丘につきあたった行き詰まったところに黄色の無装飾の大きなビルディングが建っている。…是が国立海外移民収容所である。

出典:石川達三「蒼氓」

写真2 神戸海洋気象台仮庁舎の看板
写真2 神戸海洋気象台仮庁舎の看板

神戸海洋気象台仮庁舎

国立移民収容所の建物は、神戸市を見おろす山道であるビーナスラインの登り口付近にあり、のちに神戸市医師会准看護学校として使われていましたが、平成7年1月17日の阪神淡路大震災の数年前から空家になっていました。

阪神淡路大震災で神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台)が被災し、建物の一部が使えなくなると内部が修理され、平成7年11月8日から、神戸海洋気象台の総務課と海洋課が仮移転し、そこの2階を使って業務が始まっています(写真2)。

そして、神戸海洋気象台の仮庁舎の前庭には、移民発祥の石碑がありました(写真3)。

写真3 ブラジル移民発祥地の石碑
写真3 ブラジル移民発祥地の石碑

気象台の復興

神戸海洋気象台の仮庁舎は、元に戻るという意味の復興ではなく、多くの人々とともに新しい未来を築くという意味の復興には、ふさわしい舞台かもしれません。

移民を通じて歴史的につながりが深いブラジルは、平成7年が日本との修好100周年にあたりました。

このため、ブラジルでは、阪神淡路大震災の義援金が、日系人社会を中心に集められ、地震後の1か月半だけで50万レアル(約6000万円)を超えています。

神戸海洋気象台は、平成11年9月1日から、新しく完成した神戸防災合同庁舎で業務を開始し、仮庁舎の使用は終わります。

そして、平成25年10月1日から神戸地方気象台に組織改編となり、海に関する業務は気象庁本庁と大阪管区気象台に移りました。

図の出典:饒村曜(2010)、海洋気象台と神戸コレクション、成山堂。

写真の出典:饒村曜(1996)、防災担当者の見た阪神・淡路大震災、日本気象協会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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