平姓から藤原姓に改姓した豊臣秀吉の関白就任に至る事情と経緯
会社などでも、普通の取締役から数人を飛び越して社長が出ることも珍しくない。豊臣秀吉が関白に就任した事情と経緯も非常にややこしかったので、その辺りを解説することにしよう。
天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が横死すると、羽柴(豊臣)秀吉がライバル(柴田勝家など)を出し抜いて天下人に躍り出た。2年後の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康も秀吉に臣従した。
天正13年(1585)7月、秀吉は関白に任じられた。しかし、それまでの昇進の過程については、実に不可解な点がある。その経過を示すと、次のようになろう。
◎天正10年(1582)10月 ― 従五位下・左近衛権少将
◎天正11年(1583)5月 ― 従四位下・参議
◎天正12年(1584)5月 ― 従三位・権大納言
これらの口宣案(辞令書)の筆跡はすべて同じで、秀吉が従三位・権大納言に叙位・任官された際、残りの2つは遡って形式的に作成されたと指摘されている。順調に昇進したように見せかけるためである。
秀吉が関白に就任した経緯や事情も複雑である。天正13年(1585)2月、左大臣の二条昭実が関白となり、左大臣には右大臣の近衛信輔が任じられた。そして、右大臣は秀吉にお鉢が回ってきた。
ところが、秀吉は右大臣だった信長が本能寺の変で非業の死を遂げたので拒否し、内大臣に就任したのである。その後、信輔が関白を強く希望したので、すでに職に就いていた昭実と争いになった。
2人の争いは、秀吉のもとに持ち込まれた。秀吉はいずれが非となっても家が破滅し、朝廷にとっても良くないと説明すると、自分が関白を務めると信輔に提案した。しかし、信輔は大いに悩んだ。
その結果、秀吉は前久(信輔の父)の猶子となり、のちに信輔に関白を譲ると約束したうえで、関白に就任したのである。その際、秀吉はそれまでの「平」姓を捨て、「藤原」に改姓したのである。
つまり、秀吉が関白に就任した事情や経緯は、昭実と信輔との争いに乗じたものだった。しかも、彼らは嫌だとはいえなかっただろうから、半ば強引に進められたことになろう。