関ヶ原合戦前夜、吉川元春の死で家中がガタガタになってしまった吉川家
現在の会社でも、大黒柱の社長が亡くなり、経営がガタガタになることは決して珍しくない。それは戦国時代も同じことで、毛利家を支えた吉川家も、当主の元春が亡くなって家中がガタガタになった。その概要を確認することにしよう。
天正10年(1582)、毛利家のもとで山陰方面の軍事を担当していた吉川元春は、当主の座を辞し、家督を長男の元長に譲って引退した。むろん、完全な引退というわけではなく、早めに家督を譲って元長を後見し、スムーズな権限移譲を行うためだろう。
一説によると、元春が家督を譲った理由は、豊臣秀吉の配下で働くことを潔しとしなかったといわれているが、それは俗説に過ぎないと考えてよい。
天正14・15年(1586・1587)にわたって、秀吉は九州征伐(島津氏の討伐)を敢行するが、その際には百戦錬磨の元春の力が必要だった。元春は秀吉からの強い意向と輝元の要請に応じて、九州の戦地へ赴いた。
ところが、元春は57歳という年齢になっており、病を抱えていたといわれている。加えて戦地での過酷な生活に体を蝕まれたのか、天正14年(1586)11月、元春は豊前国小倉(福岡県北九州市)で病没した。
すでに元春の跡を継いでいた元長は、父に代わって山陰方面の軍事指揮を担当した。元長は文学・仏教・儒教に造詣が深く、豊かな教養をもって知られた人物である。元春と比べても能力的に遜色はなく、毛利輝元を支える人材として申し分はなかった。ところが、吉川家には悲劇が続いた。
元長は父に代わって、九州征伐に出陣し、大いに秀吉の期待に応えた。しかし、慣れない土地での合戦は、意外と体に応えたのかもしれない。
天正15年(1587)6月、元長は日向国都於里(宮崎県西都市)の陣中において、元春のあとを追うかのように病没した。まだ40歳という若さだった。元春、元長の相次ぐ死は、吉川家のみならず、毛利家にとっても大きな打撃だった。
元長の遺言によって、吉川家の家督を継承したのは、元春の三男・広家だったが、当時まだ27歳の青年に過ぎなかった。広家は秀吉の養女(宇喜多秀家の姉)を娶り、天正19年(1591)には秀吉から伯耆国三郡、出雲国三郡、隠岐国一国などを与えられ、14万石の大名として出雲国富田城(島根県安来市)を本拠とした。
広家は文禄・慶長の役にも参陣し、数々の軍功をあげた。関ヶ原合戦に至る過程において、広家の動向は非常に重要である。しかし、広家はまだまだ経験が足りず、毛利家の政僧の安国寺恵瓊との関係も良くなかったという。いずれにしても、元春の死は、吉川家、毛利家に不幸をもたらしたのである。