「どうする家康」、家康の一族である一四松平と一八松平とは
三河松平郷で誕生した松平一族は室町時代中期に岡崎平野に進出し、以後数多くの庶子家を輩出し、三河一帯に広がっていった。この松平一族の総称として「一四松平」、あるいは「一八松平」という言葉が使われる。「どうする家康」に登場した大草松平氏もその1つである。
一四松平と一八松平
「一四松平」とは、江戸時代まで続いた松平一族の総称で、3代信光の庶子家である竹谷家(たけのや)、形原家、大草(岡崎)家、五井家、深溝家(ふこうず、五井の庶子家)、能見家(のみ)、長沢家、4代親忠の庶子家である大給家(おぎゅう)、滝脇家、5代長親の庶子家である福釜家(ふかま)、桜井家、東条家、藤井家、6代信忠の庶子家である三木家の14家を指す。
「一八松平」の場合は、それ以前に滅んだ岩津家、西福釜家、鵜殿家の3家と、大給家の分家宮石家を加えることが多いが、確定しているわけではなく異同も多い。また、「一八」というのは数が多いという意味で、必ずしも18家あったというわけではないともいう。
なお、本来の本拠地であった松平郷に代々住んでいた松平太郎左衛門家など、「一八松平」にも数えられない一族もある。
松平一族の惣領争い
そもそも松平郷の1土豪に過ぎなかった松平氏は、3代信光のときに松平郷を出て岡崎平野に進出した。信光が本拠としたのが三河国額田郡岩津(現在の岡崎市岩津町)で、惣領は岩津家と呼ばれた。
信光は室町幕府官僚の伊勢氏の家臣でもあるほか、弟の益親は京で金融業を営むなど、他の土豪層とは違った活動を見せていた。しかし、永正3年(1506)に今川氏が三河に侵攻してきた(永正三河大乱)際に、岩津家は敗れて没落。
代わって、これを阻止した安祥家の長忠が惣領の座に就いた。戦乱の続いたこの時代、力のあるものが惣領となるのは当然のことだった。没落した岩津家は、室町時代後期には滅亡している。
新たに惣領となった安祥家は信光の三男(四男とも)親忠が祖で、長忠は親忠の子である。その子清康は岡崎に進出していた大草家を岡崎から追い払い、以後岡崎を本拠として松平一族を統率した。しかし、一族は一枚岩であったというわけではなく、清康が家臣に殺される(森山崩れ)と、一時期桜井家に惣領の座を奪われている。
家康の立場
家康は安祥松平家の嫡男で、惣領として松平一族を率いる立場にあった。しかし、祖父、父と2代に渡って非業の死を遂げたことから、一族の惣領でありながら今川家の人質として苦難の道を歩んでいた。
天下を取る前に、まず松平一族の再統一から始める必要があった。