「光る君へ」で、道長の妻となりながらも藤原氏を恨む源明子。その実家醍醐源氏とは
大河ドラマ「光る君へ」に藤原道長の妻(妾)となった源明子が登場している。
明子は道長の妻となって子をなしながらも、藤原氏には激しい恨みを抱いている。その実家である醍醐源氏とはいったいどういう家なのだろうか。
醍醐源氏とは
道長の嫡妻である源倫子が宇多源氏の一族であるのに対し、明子は醍醐源氏の一族で、同じ源氏とはいっても別の一族である。
醍醐源氏とは延喜20年(920)第60代醍醐天皇の皇子高明・兼明・自明らが源姓を与えられて臣籍降下したのが祖である。ただし、兼明は貞元2年(977)57年振りに皇籍に戻って親王に復している。
その後も、醍醐天皇の孫達が次々と源姓を賜って臣籍に降下した。醍醐天皇は宇多天皇の長男で、宇多源氏よりは新しい一族であった。
源高明と安和の変
醍醐源氏の中で最も出世したのが源高明である。
高明は康保4年(968)冷泉天皇の即位に伴って左大臣に進んだが、娘を村上天皇皇子為平親王の妃としたことで藤原氏に警戒され、安和2年(969)藤原氏の策謀した安和の変によって失脚、大宰権帥に流された。
天禄2年(971)に高明は赦されて翌年帰京したものの、結局政界に復帰しないまま死去、醍醐源氏は勢力を回復することはできなかった。
明子は高明の娘で、父が失脚したため叔父盛明親王の養女となっていた。天皇の孫でありながら不遇で、明子が藤原氏を恨んでいるのはこのことによる。
明子の兄源俊賢
ドラマには明子の実兄俊賢も登場している。
俊賢は妹明子が藤原道長の妻となったことから道長に従い、後に大納言に昇って能吏として知られ「一条朝の四納言」と称された。
俊賢の二男隆国も権大納言となって後一条天皇から白河天皇までの5代に仕えて「宇治大納言」といわれ、説話集『宇治大納言物語』を著したという。『宇治大納言物語』は『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』のもとになったものと言われるが現存しない。
また隆国の九男が、鳥羽僧正と呼ばれ「鳥獣戯画」の作者とされる天台座主覚猷であるなど、醍醐源氏からは多彩な人物が誕生した。
その後、醍醐源氏からは公家は1家も出なかったが、盛明親王の皇子則忠の末裔は信濃小路家となり、代々九条家諸大夫をつとめている。