【目黒区】目黒銀座路地裏にある「馬頭観音」、江戸時代からの民間信仰を訪ねて
華やかで洗練されたイメージの中目黒ですが、古い商店街がまだ残されており、お地蔵様に手を合わせる地元の方などに遭遇することがよくあります。
目黒銀座商店街を歩いていると、ビルとビルの間の細い路地奥に「目黒馬頭観音の提灯を見かけました。前から気になっていたので、ふらりと足を運んでみました。
今回は馬の守護神として信仰を集めてきた「馬頭観音」、目黒の歴史とも関わりが深い民間信仰についてご紹介しましょう。
江戸時代に流行した「馬頭観音(ばとうかんのん)」信仰とは?
馬頭観音とは、六観音(ろっかんのん)の一つ。六観音とは日本における仏教の輪廻思想(六道輪廻)の中で私たちを救ってくださる六体の観音(観世音菩薩)のことです。
六道は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上を表し、それぞれに観音が配置されています。以下、六道と対応する観音をまとめました。
- 地獄道:聖(しょう)観音(観音本来のお姿で人間の姿に一番近い姿をしている)
- 餓鬼道:千手観音(観音が変化した姿で千は無数を象徴し、あらゆる方法で人々を救う慈悲を象徴)
- 畜生道:馬頭観音(観音の怒りを表した姿で魔を打ち砕く力を表す)
- 修羅道:十一面観音(頭の上に11の顔があり、全方向を見守ることで苦しんでいる人をすぐに見つけ出す)
- 人間道:准胝(じゅんでい)観音(たくさんの仏を誕生させる存在)、もしくは不空羂索(ふくうけんさく)観音(羂索=投げ縄を投げ、もれなく救う)
- 天上道:如意輪(にょいりん)観音(思うがままに願いを叶えて苦しみを取り除いてくれる)
馬頭観音は他の観音像とはちょっと異なり怒りの表情をしています。怖いお顔立ちは人々の煩悩を馬のように食い尽くし、厄災を取り除く力の強さを象徴。慈悲が最も強いことを表しているそうですよ。
江戸時代は馬とともに生活し、農耕にも欠かせない存在でありました。馬の頭を持つ観音像に自分たちの大切な馬の姿を重ね合わせ、いつしか馬の守護神として信仰の対象に。
馬の無病息災を祈り、供養するという民間信仰として馬頭観音が広まったということのようです。
目黒区内には13カ所、馬頭観音が残されている
目黒区のホームページによると、目黒は馬にゆかりが深い土地柄であることから馬頭観音信仰が熱心だったのではないかと考えられているようです。
目黒の地名となったといわれている説のひとつ「馬畦説(めぐろ)説」は、めぐろの「め」は馬を意味し、「くろ」は畦道を意味しています。馬畦(めぐろ)という音からその地名がつけられたのではないかという考え方です。
馬の牧場が数多くあった目黒では、馬を使った地名(駒場、駒沢、下馬、上馬など)が確かに多いですね。
また「愛驪(めぐろ)」は、黒馬のことを「驪(くろ)」と書き、それを愛でるようにかわいいがったことから、愛驪(めぐろ)から目黒に転化したという説。この他にも目黒の地名にはいくつか説があり、目黒の鎮守として敬愛されている大鳥神社は「めくら神」と呼ばれたことからという説も有力とか。
本来は人を救う観音であった馬頭観音ですが、いつのまにか馬を救う存在として私たちの生活に定着し、信仰されたということです。
目黒銀座にある馬頭観音の他に東山中学校にある馬頭観音(軍馬を使った厳しい訓練が行われた場所でその慰霊碑として建てた)、目黒不動尊境内、瀧泉寺墓地内にある三十間堀馬頭観音、寿福寺など、区内には13カ所に残されているそうです。
ちなみに、目黒には競馬場がありました。今も元競馬場という地名が残され、交差点近くにはトウルヌソル像(目黒競馬場第1回日本ダービーで勝利した馬の父、たくさんの活躍馬を出した名種牡馬)があります。
1953年(大正2年)に目黒競馬場で焼死した競走馬のために馬頭観音を建立。その後1933年(昭和8年)に競馬場が府中に移転した際、一緒に移されましたが、今でもレース前にはその馬頭観音に無事故を祈るそうです。
「目黒銀座観音」と呼ばれている中目黒の馬頭観音
目黒銀座商店街奥にこじんまりと鎮座する馬頭観音。説明の看板を読むと、大正時代の終わり頃は小規模な乳牛牧場や馬力運送業者がたくさんあり、目黒恵比寿畜舎運送組合を形成していたそう。
その代表者である方々が発起人となり、牛馬の無病息災を祈り、亡くなったあとは菩提を弔うという目的で東松山市にある妙安寺から分霊を勧請したとのこと。その後、木彫り(約8寸=24.3)の馬頭観音像が安置されました。
私が訪れた時も境内はきれいに管理され、地元からは今もなお信仰の対象として大切に守られていることを感じます。皆さんも中目黒を訪れた際は、少し寄り道して目黒に残されているかつての暮らしや願いに触れてみてはいかがでしょうか。
【目黒銀座観音(馬頭観音)】
住所:東京都目黒区上目黒2‐14‐6