伊藤詩織さんが示した「実名報道」の意義 明治から続く記者クラブ前提の考えは限界に
警察が記者クラブで事件の容疑者や被害者の「実名発表」をし、それを元に新聞やテレビが「実名報道」する。明治から続く記者クラブシステムに限界が来ています。
「実名発表」から「実名報道」への流れとそれぞれの論理や相違点を説明した前回の記事「京アニ放火事件の実名報道とやまゆりの実名発表の違い」で、デジタル時代の新たな論点として2つ挙げました。
- ネットで情報が拡散し、検索され、アーカイブされる中で、実名を報じられることの影響をどう考えるのか。
- ネットがこれだけ発達しているのに、警察の実名発表の場は従来の記者クラブのままで良いのか。
それぞれについて見てみます。
実名を公開される不利益が拡大
前回詳しく説明したように、「実名発表」と「実名報道」をそれぞれ原則とする警察も報道機関も、被害者側への配慮を理由に匿名にするケースがあることでは一致しています。名前が知られることで、嫌がらせや新たな犯罪に巻き込まれる恐れもあるからです。
インターネットの時代になり、とくにソーシャルメディアの発展で情報の拡散力が一気に拡大しました。事件の被害者の名前が出ると、すぐにTwitterなどで拡散され、根拠に乏しい噂話が出回り、ネットでまとめられ、検索によって多くの人の目に触れます。
しかも、ネットだからそれがいつまでも残ってしまい、すべてを消去することは不可能です。
名前を知られることで不利益を被る可能性は大きくなっている。しかし、その対策はほとんどとられていません。
新聞社やテレビ局は事件直後の報道では実名を取り上げ、その後、徐々に匿名化していったり、事件に関する記事は一定期間をおいてウェブサイトから消したりしていますが、一度ネットで報じた名前をあとから匿名化しても、すでに他のメディアや個人ブログなどに広がっており、あまり意味がありません。
では、被害者の不利益が拡大するデジタル時代には、被害者の匿名化を進めた方が良いのでしょうか。参考になる事例がカナダにあります。
実名公表に方針転換したカナダの警察
エドモントン警察は2017年、殺人事件の被害者の名前を匿名化しました。国民の知る権利よりも被害者と遺族のプライバシーを優先させる決定でした。
しかし、2019年にこの決定を見直し、再び原則的に実名発表する方針を打ち出しました。エドモントン警察からの調査依頼を受けたNPO「Community Safety Knowledge Alliance(CSKA)」 からのレビューに基づく方針転換でした。
「殺人事件被害者の実名発表」と名付けられたそのレビューは、ネット上で公表されています。
警察、メディア、被害者支援グループ、市民や有識者から意見を集めて、分析したレビューでは、様々なデータが紹介されています。
匿名発表する警察はごく一部
調査に応えたカナダ全土の28警察当局のうち、36%は完全に実名発表しており、原則的に実名発表が54%、完全に匿名としているのはわずか7%でした。
また、50%が警察による発表の前に被害者の名前はFacebookなどのソーシャルメディアに掲載されてしまっているといいます。ソーシャルメディアで根拠のない噂が広がるのをとめるためにも、警察の実名発表が重要という意見もありました。
実名発表がなかったとしても、ネット時代に名前が拡散していくことは避けられない。それであれば実名をきちんと公表することで正確な情報を伝えることができる。この考え方は朝日新聞社が公開した「事件の取材と報道 2012」の「真実性の担保」「匿名による混乱防止」などにも共通するものです。
興味深いのは、警察が実名発表をしてネガティブな反応を受けたのは0%という結果です。被害者の実名は公表されるべきであるという考えが警察にも社会にも広がっていることがわかります。
ただし、遺族の意向は反映するべきだと警察当局の54%が指摘しています。
みんなで方針をつくるべき
レビューの中では、実名派も匿名派も「実名・匿名発表に関する一貫性のある方針が必要だ」という点では一致し、多くは「その方針は被害者を中心に考えて、遺族に敬意を払って情報を知らせ、支援することを確証するものであるべきだ」と考えていることが指摘されています。
また、レビューに協力したほとんどの人たちが「その方針は警察当局だけではなく、メディアや有識者や遺族も一緒に作り上げるべきだ」と主張したことも記されています。
「みんなで方針をつくる」。この考え方が日本には欠けていると感じます。これは、デジタル時代の論点の2つ目に関わっています。
発表の場が記者クラブになる理由
ネットがこれだけ発達しているのに、警察の実名発表の場は従来の記者クラブのままで良いのか。京都アニメーションの放火事件で最も批判が高まったのは、府内で活動する新聞社やテレビ局12社が京都府警に被害者の実名発表を求めた申し入れでした。
ここでいう「実名発表」は、記者クラブに対する発表です。京都府警は遺族に公表を望むかの確認をとり、それぞれの遺族の意向を明示した上で、被害者の実名を記者クラブに属している報道各社にのみ伝えました。記者クラブ外のネットメディアなどの取材に対しては、公表を拒否しました。
デジタル時代において、警察が実名を発表しようと思えば、ウェブサイトに掲載することも、ソーシャルメディアで発信することもできます。新聞社やテレビ局しか加盟していない記者クラブで発表をすることに、どういう利点があるんでしょうか。
私もかつては京都府警記者クラブに所属していました。記者クラブ員には毎日大量の事件に関する広報文がわたされ、会見も頻繁に開かれ、連日記事を書いています。記者クラブ外の報道機関やフリーランスのジャーナリストが関心を持つような大きな事件は年に数回もありません。
そうすると、いざ大事件がおきたときに府警広報の担当者としても、記者クラブ以外に情報を知らせる窓口はありません。
新聞記者からネットメディアBuzzFeed Japan創刊編集長になり、いまはフリーランスで活動している私のところには、警察や記者クラブ関係者から相談が来ることがあります。
「今の時代に記者クラブだけで情報を公表するのはおかしい」「遺族が手記を公表するときに、広く知ってもらうためにネットメディアにも掲載を望んでいるのに受け皿がない」
そういう悩みも現場から出てきています。
新聞社も認める現状の問題
京都アニメーションの放火事件で、京都府警から実名を発表された報道各社の判断はわかれました。
すべての犠牲者の名前を実名報道した社もあれば、遺族の意向にそって一部を匿名にして報じた社もあります。日本新聞協会や日本民間放送連盟が2005年に出した共同声明の「実名報道か匿名報道かを自律的に判断する」という言葉通りでした。
その結果、全てを実名報道した社に対しては「遺族の意向も無視するのか」とさらなる批判が広がりました。
Yahoo!ニュースでは「#実名報道」という連載企画で、京都新聞がそのときの判断を振り返った記事「【#実名報道】京アニ事件、届かなかった実名報道する「おことわり」 新聞社内 でどんな議論があったのか」を出しています。
遺族が公表を望まなかった被害者もすべて実名報道した京都新聞は、記事を掲載する際に次のような「おことわり」をつけました。
「尊い命を奪われた一人一人の存在と作品を記録することが、今回のような暴力に立ち向かう力になると考えています。これまでの取材手法による遺族の痛みを真摯に受け止めながら、報道に努めます」
ですが、京都新聞は今回の振り返りの記事で「メディア側の判断基準が社会にとってブラックボックス化したまま、共感も納得も得られていない現実」があることを認めています。
実名発表と実名報道の方針を共につくる
実名を原則としながらも、どういう状況で匿名とするべきか。新聞社や記者クラブ加盟者だけで議論しても、共感も納得も得られないでしょう。カナダの事例のように、広く意見を募り、方針を作り上げる必要があります。
共同通信の澤康臣記者の著作「なぜイギリスは実名報道にこだわるのか」で澤記者が取材したグレータ−・マンチェスター警察のコレット・ブース広報部長はこう語っています。
「私たち広報担当がいつもすることは、被害者家族担当官と一緒に被害者のお宅に行き、メディアが求める情報を提供したいと説明すること。また、被害者の方々メディアに話すことを止めることはないとも」
「何らかの理由から警察が全く情報を出さなかった場合、メディアはどこかに行って別の人から情報を得たり推測したり、そしておそらく不正確な報道をするでしょう。(中略)家族にとっては『私の息子、娘はすばらしい人間でした。これが私達の持っている一番いい写真です。彼らは人生でこんなことをしてきました。すばらしいでしょう』と言うための機会になる」
やまゆり園の事件で犠牲となった美帆さんの名前を公表した遺族も、「美帆は一生懸命生きてきました。その証を残したい」と語っています。事件被害者の実名を公表することで、目撃者や関係者から新たな情報が提供される可能性もあります。
澤記者の著作によると、コレット・ブース広報部長は記者経験者で、イギリスの警察の広報担当にはそういう人材が珍しくないそうです。実名報道について、警察と報道の両方の目線から見ることができる人たちがいることは、議論を深めるうえで貴重です。
残念ながらほとんどの記者が定年まで一つの報道機関に務める日本にはない土壌です。そんな日本だからこそ、記者クラブにとどまらない開かれた議論が必要ではないでしょうか。
伊藤詩織さんが示した実名の意義
事件報道の公益性と実名の持つ意義について、違う事例からも考えてみます。
元TBS記者の山口敬之氏に性行為を強要されたと訴えた裁判で勝訴したジャーナリストの伊藤詩織さんは、2017年に出版した著作「ブラックボックス」で、2015年に過労自殺に追い込まれた電通社員の高橋まつりさん、2016年にいじめで自殺に追い込まれた中学生の葛西りまさんの名前を挙げて、こう書いています。
「最愛の人を失うという大変つらい経験をした後に、このようなことが二度と起こらないようにメディアの前で話をすると決めた遺族の気持ちは計り知れない。そこに『被害者のAさん』ではなく、実際に名前と顔がある人間として登場したことが世の中に与えた影響は大きかったであろう。そして、このご遺族の行動を見て、私も「被害者A」でいてはいけないと、はっきりと思ったのだ」
裁判の判決では、伊藤さんが記者会見や著書で被害を訴えたことについて「性犯罪の被害者を取り巻く法的、社会的状況を改善しようとしたもので、公共性および公益目的ある」と認定されました。
事件について広く知ってもらうことで、法的・社会的な改善につなげる公共性と公益目的。これは報道機関が常に訴えてきたことであり、それを裁判所も認めました。
実名発表と実名報道の意義について開かれた議論を
私が元新聞記者であることなどを理由に「古田は実名報道を擁護しているだけだ」との批判があります。それは誤解です。私が今回の記事で訴えたいのは「現状の実名報道のあり方には課題がある。特に記者クラブの役割について改めて議論が必要だ」ということです。
伊藤詩織さんの事例や、カナダでの調査やイギリスの警察の事例が示すように、そして、日本の警察や報道機関も全て一致するように、民主主義社会においては、公的な情報は可能な限り共有されるのが原則です。
同時に、被害者や遺族のプライバシーや意向はとても大切です。
この2つのバランスをどうとるのか。事件が発生してから議論をしても間に合いません。カナダの事例のように、警察もメディア(記者クラブメンバーだけではなく)も有識者も市民も交えた議論が必要ではないでしょうか。