痛みと夢に導かれ――日本人初のランジェリー・フットボールプレーヤー、濱口芙由紀の数奇な人生
「あなたって、addicted to painだよね!」
彼女は友人たちから、しばしば、そう言われてきたという。
痛み中毒――直訳すれば、そんな言葉になるだろうか。肉体的痛み、精神的痛み、あるいは、厳しい環境に身を置き生きる緊張感……確かに、濱口芙由紀という女性の歩みを辿ると、痛みに吸い寄せられるかのような性向こそが、今この場に彼女を導いてきたようにも見て取れる。
在住地:ロサンゼルス。
職業:弁護士。そして、“レジェンド・フットボールプレーヤー”。
レジェンド・フットボールと言われてピンとこない人も、数年前までは“ランジェリー・フットボール”と呼ばれていたと聞けば、恐らくは像を結ぶのではないだろうか。
そう、濱口は今年4月5日に開幕したレジェンド・フットボール・リーグ(LFL)にてデビューを果たした、日本人初の、プロフェッショナル・ランジェリーフットボール選手である。
痛みに導かれたかのような濱口の旅路ではあるが、伊勢神宮に近い港町に育った彼女が太平洋を隔てたロサンゼルスに渡った原動力は、“憧れ”だ。
「好きなものは、全てここにあったんです」と、今や、世界最大のエンターテインメントの街に根を張った彼女が言う。
アクション映画、サーフィン、スノーボード、バスケットボール――幼少期から心惹かれてきた全ての物が、その“本場”を追った時、一つの土地を指していた。
「これはもう、ロスに行くしかないと思って」。
地元の高校卒業後には、ロサンゼルスの大学進学を視野に入れ、資金稼ぎのバイトに精を出した。
濱口が好きな物の未来を指すのがロサンゼルスなら、その原点にあるのは、父親だ。女の子らしい姉に続いて生を授かった濱口家の次女に、父親は、男の子のように接したという。
「お父さんは男の子が欲しかったので……なので私は小さい頃から、男の子がやることをやらされていました。野球のユニフォームを着てキャッチボールしたり、お父さんのバイクに乗せてもらったり」。
もっともそんな父親を、芙由紀少女は、純粋に大好きだったのだろう。アクション映画のスタントマンになりたいと思ったのも、「バイクに乗るお父さんの姿がかっこいいと思った」ことが、大きく影響しているはずだ。
ただ、濱口がアメリカの大学進学を考えていると伝えた時、父は「そんな夢みたいなことが、お前にできるはずないだろう」と反対したという。いや、むしろ軽くあしらわれた、小馬鹿にされた……、そう濱口は感じていた。
高校卒業から約1年後、濱口はかねて心に決めていた通り、単身ロサンゼルスへ渡る。
その時、父親は「俺の娘は、一人居なくなった」と放言したという。
そう思っていなければ、心配でやっていられなかった……そんな父の告白を聞いたのは、しばらくしてからのことだった。
■学業に邁進し法曹の道へ。そして人の縁とPainに導かれたフットボールとの出会い■
ロサンゼルスに渡ってからの濱口の生活は、夢への憧れと苦しみで紡いだ糸を命綱とする、サバイバルのような日々である。
まずはサンタモニカのコミュニティ・カレッジに通って英語力を高め、その後はロサンゼルス・シティカレッジに編入すると、映像関連のクラスを片っ端から受け学位を修得。さらにはカルステート・LA大学へと進み、法科大学院(law school)入学のために猛勉強をしながら、バイトで学費をも稼ぎ出す。
大学の授業と受験勉強、そしてバイトを並行し、家に帰った瞬間に眠りに落ちては、起きて直ぐに学校に向かう毎日。その努力の甲斐あって、僅か1年半でカルステート・LAを卒業すると、法科大学院への進学を果たした。法曹の道を志したのは、異国で生きていく実用性を考慮したのと同時に、映画やスポーツの世界との接点が豊富なのも理由だ。
かくも学業に打ち込み、法科大学院卒業後は弁護士として生計を立てるまでになった濱口だが、その間、スポーツへの情熱を失うことはなかった。特に、高校時代に青春を注いだバスケットボールは、常に彼女の生活や肉体の一部を成す。アメリカンフットボールとの出会いも、バスケットボールのチームメイトを介してだった。
フラッグフットボールもやっていたそのチームメイトが、濱口をさかんに「一度、フラッグフットをプレーして!」と誘ってくる。そこで、ルールもよく知らずに出た試合で、タッチダウンを2本決める活躍を見せた。すると、自分の3倍はあろうかという大柄な男性が濱口に駆け寄り、両手で肩を揺さぶりながら「君は絶対にフットボールをプレーするべきだ!」と叫ぶ。
「ええ~……私みたいな細身な人には、アメフトはムリだよ」と言うと、返ってきた言葉が「大丈夫、命からがら走れ!」である。濱口が出たタッチフットの試合で審判を務めていたその男性は、女子アメフト・リーグの、ロサンゼルス・ウォーリアーズのコーチだったのだ。さらにはその数年後に、ウォーリアーズのオーナーに、女子アメフト界のスター選手である、ベティ・スズキこと鈴木弘子が就任した。それらの縁も重なって、濱口はアメフト選手という二足目のわらじを履くことになる。2015年のことだった。
ランジェリーフットボールの世界に足を踏み入れるきっかけも、チームメイトからの勧誘だ。
「うちのチームには、優れたレシーバーが必要なの! トライアウト(入団テスト)を受けて!」。
チームメイトから掛けられたその誘いに、ウォーリアーズが休部になったのを機に、昨年末に乗ってみた。トライアウト参加者は、約50名。その後、ふるいに掛けられた10名にキャンプ参入の通達が来る。濱口も、そのうちの一人だった。
ランジェリーフットボールという言葉だけを耳にすると、華やかな美の競演をイメージする人も多いだろう。しかしその内実は、反則スレスレのプレーも辞さぬ上昇志向者揃いの、弱肉強食の世界だ。特に、まだチームと正式契約する20名が絞られる前のキャンプでは、新参者はオリジナルメンバーの格好の標的となる。練習では顔を狙われ、アザや生傷も絶えない。
それでも濱口は、文句を言うことも、ダーティプレーで反撃をすることもなく、やるべきことに徹し続けた。そんな彼女の姿勢は、実力主義の監督の目に止まる。2月に20人の契約選手が発表され、その中に濱口の名があった時、彼女に対する周囲の態度や視線は180度変わった。
「認められたなって感じました。今のチームメイトは、尊敬できる人たちばかりで大好きです」。
日本人に、アメフトができるものか――そんな先入観を打破した時、彼女は、最大級の敬意を獲得していた。
弁護士としての激務の間を縫いながらも、“レジェンド・フットボールリーグ”に参戦する最大のモチベーションとは何か――?
その問いに濱口は、「自らを鍛え高める目標ができた充実感。そして何より大きいのは、憧れ続けたプロアスリートになれた喜び」だと即答する。
「レジェンドフットボールリーグは、入場時のライトアップやスモークなど、ショーアップが凄いじゃないですか!」。
その華やかなステージへと、彼女は、この春に足を踏み入れた。
痛みへの中毒、そして夢への憧れ――その2つが交錯し結ぶ像を、今、濱口は体現している。