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旅立ち、出会い、そして帰還——。駅前の仮設テニスコートから世界へと広がる少年・少女たちの成長譚

内田暁フリーランスライター
14歳以下の国別対抗戦”ワールドジュニア”の日本代表の鈴木美波。著者撮影

500のマイルストーンに達した日本夏季五輪のメダル第一号とは……?

 1920年8月、オランダ・アントワープ——。

 オリンピックのテニス男子シングルス決勝のコートに、日本人選手が立っていた。彼の名は、熊谷一弥。南アフリカのルイス・レイモンドとの死闘には7-5, 4-6, 5-7, 4-6 で敗れるも、熊谷は銀メダルを獲得する。それは、現在開催中のパリオリンピックで500のマイルストーンに到達した日本メダル獲得史の、始まりとなるメダル第一号だった。

柔道48キロ級の角田夏実が獲得した金メダルが、日本の夏季五輪通算500個目のメダルとなった
柔道48キロ級の角田夏実が獲得した金メダルが、日本の夏季五輪通算500個目のメダルとなった写真:YUTAKA/アフロスポーツ

 大正中期の日本に、世界トップクラスのテニス選手がいたことを、意外に思われる方は多いかもしれない。実はこの時期の日本において、ヨーロッパから流入してきたテニスは、海の向こうの世界をうかがい知る、のぞき眼鏡のような存在だった。

 明治維新から約半世紀後の、1910〜20年――。ヨーロッパやアメリカが今より遥かに遠かったこの時代に、熊谷は三菱合資会社銀行部(現三菱UFJ銀行の前身)の駐在員として、ニューヨークに長期滞在していた。社が彼に求めたのは、テニスで活躍し、地元の名士たちに認められること。加えるなら、同年に“日本人初のウインブルドン準決勝進出者”となった清水善造も、三井物産の駐在として、インドや米国の社交界に居場所を築いたという。そうして彼らは帰国の後、テニスのみならず日本のスポーツ界や社会そのものに、見聞してきた知識や経験を還元する。それら”テニス外交“が成立し得たのは、欧米諸国でテニスというスポーツが、社会構造の一角を担っていたからに他ならない。

現代でもテニスが担う、多様な社会のモデルケース

 時は流れて、2024年――。100年前の世界でテニスが果たした役割は、今もさほど変わってはいないだろう。生涯スポーツと称されるテニスの国際大会は、下は10代前半から、上は98歳まで参加可能なものが世界各地で開催されている。老若男女問わず楽しめるのも特性で、その見本市と言えるのが四大大会(グランドスラム)。例えばウインブルドンでは、男女のトップ選手たちによる単複のトーナメントに加え、混合ダブルス、男女ジュニア(14~18歳)部門、さらに2年前からは14歳以下部門も設けられた。加えて車いす部門には、男女の単複と、クアード(四肢まひ)がある。これらすべての種目が、同一会場・同一期間で開催されるのは、テニスが長い歴史の中で担ってきた社会的役割と、多様性を備えている証左だろう。

↑浜松駅前、遠鉄百貨店本館と新館の間の空間に仮設テニスコートが出現。行き交う人々の足跡が交錯する。著者撮影
↑浜松駅前、遠鉄百貨店本館と新館の間の空間に仮設テニスコートが出現。行き交う人々の足跡が交錯する。著者撮影

 テニスが持つそれら社会性の機能が、可視化されている空間が現代の日本にもある。静岡県浜松市の駅前広場“ソラモ”は、日ごろはフリーマーケットや音楽のミニライブ等が開催されるギャラリーモール。

 人通りでにぎわうその空間に、7月下旬、4面の仮設テニスコートが出現した。コートは通常のそれよりも狭く、ボールもテニスボールより柔らかく大きい。

 コンセプトは、“ストリートテニス”。コート脇には受け付けデスクが設置され、揃いのジャージに身を包むインストラクターたちが、飛び込みの参加者に遊び方をレクチャーする。広場を通りがかった子どもたちの目に触れ、興味を引き、実際にラケットを手にボールを打ってもらうことで、テニスの楽しさを知ってもらうことが主催者たちの目的だ。

駅前ストリートテニスコートから世界へ! 14歳以下の日本代表選手の旅立ち

 この“駅前ストリートテニス”の仕掛け人である青山剛氏は、浜松の町に長く根付くスポーツ用品店『アオヤマスポーツ』のオーナー。軟式テニスの選手であった父から店を受け継いだ彼は、テニスの普及活動からジュニア育成まで手がけ、12年前からは国際大会も開催。この地に生まれ育つ人々の成長を、テニスを介し、定点観測のように見守ってきた。

 “駅前ストリートテニス”でスタッフをつとめる若者たちも、アオヤマスポーツの常連である浜松学芸高校のテニス部員たち。そのなかには、幼少期にソラモでテニスに出会った者もいる。ここから近い将来、未知なる世界へと羽ばたいていく者もいるだろう。実際に受け付けの席に座る一人は、春に地元の高校を卒業し、夏からアメリカの大学に全額奨学生として進学することが決まっていた。

 夏休みに帰省した若者が、ばったり恩師と再会し、思い出話に花を咲かせる光景も見られる。あるいは、近所のテニスクラブなどに通っている子たちだろうか、ラケットバッグを背にふらりと立ち寄る少年・少女たちもいた。

 そのように入れ替わり立ち代わり訪れる人々の中に、小麦色の肌の、いかにもスポーツに打ち込んでいそうな佇まいの少女がいる。彼女――鈴木美波――は、浜松市の中学校に通う日本のトップジュニア。14歳以下の国別対抗戦“ワールドジュニア・ファイナル”の日本代表に選ばれた彼女は、渡航の前日に、あいさつに訪れたのだった。

駅前のコートでボールを打つ鈴木美波。著者撮影
駅前のコートでボールを打つ鈴木美波。著者撮影

「美波のことは、お母さんのお腹にいる頃から知っているよ」

 鈴木美波と、その母親が並び立つ姿を見ながら、青山氏はつい先日のことのように、14~15年前の日に思いを寄せた。鈴木家は三姉妹で、美波は末っ子。現在、明治大学テニス部部長をつとめる長女を筆頭に、いずれも地元のトップジュニアとして活躍した。

 その姉たちが参加していた、“浜松市テニス協会強化練習会”のコート脇で、「自分も早く入りたくてウズウズしていた」鈴木家の末っ子の姿を、青山氏はよく覚えている。ほどなくしてその女の子は、強化練習会のメンバーとなり、仲間たちと腕を磨き、小学5年生の頃から全国大会の常連となる。プレースタイルは、「サーブで崩してネットに出る」攻撃テニス。さらには「ディフェンスにも自信がある」と美波は言った。プレーの土台を築いたのは、姉たちとの練習。8歳年長の姉にも果敢に立ち向かい、そのたびに跳ね返されては、「どうすれば勝てるか」と試行錯誤を重ねてきた。姉たちは当時から今も変わらず、「いつか追い抜きたい」絶対的な目標。同時に「憧れの存在」だとも、三女はまっすぐに言った。

 一途に姉たちの背を追う彼女は、今年5月の“全国選抜ジュニア選手権”14歳以下を制し、現在チェコで開催中のワールドジュニア日本代表の席を勝ち取った。他の代表メンバーは先にヨーロッパ入りしていたため、単身乗り込んでいく。異国に行くのも、海外選手との対戦も初となる彼女は、「今はワクワクと不安が半々。自分のテニスをしてきたい」と、目に初々しい光を湛えた。

今回のイベントをサポートした面々。地元の高校生たちが中心だ。著者撮影
今回のイベントをサポートした面々。地元の高校生たちが中心だ。著者撮影

 チェコへと旅立つ前日、鈴木は駅前の仮設テニスコートでボールを打ち、青山氏の照れくさそうなエールを背に、笑顔を残し去っていった。

 旅立つ者、帰ってきた者、あるいは偶然その場に居合わせた者……それら種々の人々の足跡がテニスコートで交錯し、共鳴し、何かしらの影響を及ぼし合いながら、螺旋を描くように循環していく。

 それは100余年前から今に続く、日本に最初のメダルをもたらした先人の息吹でもある。

フリーランスライター

編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスのライターに。ロサンゼルス在住時代に、テニスや総合格闘技、アメリカンフットボール等の取材を開始。2008年に帰国後はテニスを中心に取材し、テニス専門誌『スマッシュ』や、『スポーツナビ』『スポルティーバ』等のネット媒体に寄稿。その他、科学情報の取材/執筆も行う。近著に、錦織圭の幼少期から2015年全米OPまでの足跡をつづった『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)や、アスリートのパフォーマンスを神経科学(脳科学)の見地から分析する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。

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