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日本近海「シャチ」は100年後に絶滅する

石田雅彦科学ジャーナリスト
(写真:ロイター/アフロ)

 シャチ(Orcinus orca、Killer Whale)は海洋生態系のトップに君臨する肉食性のクジラ類だが、今のところ数を大きく減らしている事実は確認されていない。だが最近、人類がかつて環境中へタレ流していたPCB(ポリ塩化ビフェニール)の悪影響で将来的にシャチが絶滅する危険性があるという論文が出された。

PCBは依然として脅威

 シャチは母系集団を形成するが、主に沿岸に定住してサケやマスなどを捕食する集団、主に遠洋にいて他のクジラやアザラシなどを狩る集団、その中間の回遊する集団など、生態によっていくつかのタイプに分けられる。IUCN(国際自然保護連合)のレッドリストによると、以前は絶滅危惧種だったが現在ではデータ不足の項目になっているが、状況によっては容易にリストへ含まれるだろうと警告している(※1)。

 水中で一種のソナーを用いてコミュニケーションをするクジラ類は、スクリュー音や軍事用ソナーによる悪影響が指摘されてきた。シャチにも同じような騒音障害が起きている可能性が高い(※2)。

 沿岸に定住する集団の場合、サケやマスなどの餌が少なくなり、栄養失調で子を産めないメスが増えて個体数を減らしているという報告がある(※3)。遠洋で他のクジラやアザラシなどを捕食するタイプの集団でも餌不足は深刻になりつつあるようだ。

 シャチは生態系のトップに位置するため、環境中の化学物質や水銀などの汚染が蓄積されやすく、特にPCBの影響が以前から指摘されている。最近、米国の科学雑誌『Science』に世界中のシャチの個体数がPCBによって大きく減り、100年後には絶滅の危機に瀕するだろうという論文(※4)が出た。

 PCB(polychlorinated biphenyl)というのは、人工的に作られた油状などの形態を持つ化学物質だ。中高年の世代は食用油にPCBが混入して起きた食中毒のカネミ油症事件(1968年)を記憶しているかもしれないが、一時期はPCBがダイオキシン類の一種として環境汚染物質の代名詞にもなった。

 残留性有機汚染物質の減少を目的にして採択され、日本も受諾しているストックホルム条約(Stockholm Convention on Persistent Organic Pollutants)では、PCBについて2025年までに使用停止し、2028年までに処理を完了することが目標になっている。日本には別途「ポリ塩化ビフェニール廃棄物の適正な処理の推進に関する特別措置法」(2001年施行)があり、1972年から製造や輸入が中止されていたPCBの保管や処理について定めている。

 ただ、すでに製造されていないPCBは、長期間使用される機械油やトランス(変圧器)などの電気機器溶液に含まれていることが多く、廃棄物などによって環境を汚染する状況が続いてもいるようだ。また、PCBは脂肪に溶けやすく代謝されにくく、代謝物もホルモンと類似した構造になるなどするため、体内に長くとどまって胎児や新生児など世代を超えて影響を与え続ける。

日本近海のシャチに絶滅のおそれ

 1970年代まで世界中で製造され、その後も廃棄物などによって環境を汚染し続けているPCBは生態系に取り込まれ、プランクトンなどの下位の生物からシャチなど上位の捕食者へいくほど高濃度に蓄積していく。すでに過去の汚染物質と考えがちなPCBは、依然として脅威になっているというわけだ。

 今回の論文は、デンマークのオーフス大学などの研究グループによるもので、世界中のPCBの過去排出量(1930〜2000年)を見積もった研究(※5)から残留濃度の推定モデルを設定し、さらに過去調査による350頭のシャチの組織分析を入手して比較統合した。これらは世界29海域のシャチのメスとオスで、彼らの身体にどれくらいのPCBが取り込まれ、生殖と個体再生産にどのような影響があるか、その度合いを調べたという。

 その結果、PCB濃度を脂肪量1kgあたり1、3、6、9、15、18、27、40〜mgに分類し、海域ごとに分析したところ、PCBリスクは大きく低・中・高の3海域に分けられた。アラスカ(North Pacific)や南極(Southern Ocean)、北大西洋(North Atlantic)などは低リスクだったが、日本近海(Northwest Pacific)やブラジル(Southwest Atlantic)、ハワイ(Tropical Pacific)、英国周辺(Northwest Atlantic)などは高リスクだった。

 日本近海のシャチの個体数は不明だが、脂肪1kgあたりのPCB値は75〜208mgと見積もられ、研究グループによれば日本近海のシャチは75〜100年後に絶滅の危険性があるという。PCBにさらされていた電気トランスの工場勤務者の体脂肪中のPCB濃度を測った1980年代の研究(※6)によれば1kgあたり平均1.6mgだったので、シャチのPCB汚染はヒトよりかなり悪いことになる。

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日本周辺海域のシャチの将来の100年間(横軸)と集団のサイズ(%、N0)の推移をPCBの影響なし(黒色の実線)、出生率への影響(赤色の実線)、出生率と免疫の複合影響(青色の実線)で比較したグラフ。複合影響が強い場合、100年の間でほぼ集団サイズはゼロになる。Via:Jean-Pierre Desforges, et al., "Predicting global killer whale population collapse from PCB pollution." Science, 2018

 研究グループは、健康なメスのシャチは15〜40歳くらいまでの間に3年ごとに1頭の子を産むが、PCBによって生殖ホルモンや免疫システムが乱されれば出生率の低下や子シャチの免疫低下が生じると警告する。シャチは子に高脂肪のミルクを授乳するが、脂肪に溶けたPCBがそのまま子に与えられる危険性も高い。

 日本近海を含むPCB残留濃度の高い海域のシャチは、この100年の間に大きな打撃を受け、集団を形成することができなくなって絶滅するかもしれないのだ。PCBの製造や取引がなくなり管理が厳しくなり少しずつ環境中のPCBは少なくなっているが、その悪影響はシャチに限らず我々にとっても人ごとではない。

※1:IUCN(International Union for Conservation of Nature):Red List:Orcinus orca(2018/10/08アクセス)

※2:Patrick J. O. Miller, et al., "Dose-response relationships for the onset of avoidance of sonar by free-ranging killer whales." The Journal of the Acoustical Society of America, Vol.135, 975, 2014

※3:Samuel K. Wasser, et al., "Population growth is limited by nutritional impacts on pregnancy success in endangered Southern Resident killer whales (Orcinus orca)." PLOS ONE, doi.org/10.1371/journal.pone.0179824, 2017

※4:Jean-Pierre Desforges, et al., "Predicting global killer whale population collapse from PCB pollution." Science, Vol.361, Issue6409, 1373-1376, 2018

※5:Knut Breivik, et al., "Towards a global historical emission inventory for selected PCB congeners- a mass balance approach: 2. Emissions." Science of The Total Environment, Vol.290, Issue1-3, 199-224, 2002

※6:E A. Emmett, et al., "Studies of transformer repair workers exposed to PCBs: I. Study design, PCB concentrations, questionnaire, and clinical examination results." American Journal of Industrial Medicine, Vol.13(4), 415-427, 1988

科学ジャーナリスト

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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