【戦国こぼれ話】羽柴(豊臣)秀吉は中国大返しを敢行したとき、どのようにして兵糧を調達したのか
5月8日(土)に放映されたTBS「世界ふしぎ発見」(本能寺の変 解き明かされる新たな真実)を楽しく拝見した。興味深かったのは、羽柴(豊臣)秀吉は中国大返しを敢行したとき、どのようにして兵糧を調達したのかということだ。以下、考えることにしてみよう。
■兵糧は城に備蓄していたのか
番組では、兵庫城(神戸市兵庫区)に食糧が備蓄されていたと説明され、これこそが中国大返し成功の謎を解く鍵であるということだった。つまり、秀吉はあらかじめ準備を周到にしていたということになろう。
そして、兵庫城は織田信長が滞在する御座所を兼ね備えていたという。番組では根拠となる書状を具体的に挙げていなかったが、それは天正9年2月13日付の亀井茲矩宛の秀吉書状である(「亀井文書」)。この書状の中で、秀吉は「此方御座所」の普請を急ぐよう茲矩に命令した。
従来説によると、「此方御座所」とは信長の御座所を意味していた。しかし、岡村吉彦氏の「織田信長の山陰出陣計画と秀吉の動向」(『鳥取地域史研究』第18号、2016年)によると、「此方御座所」は秀吉の御座所を意味すると指摘されている。この点は重要で、信長の御座所でなければ、上記の説は根底から崩れることになろう。
考古学の調査によると、兵庫城の跡地から宿泊するための建物や付属する設備が発見された。しかし、兵庫城に食糧が備蓄されていたか否かは、なお明確だったとはいえず、今後の検討課題になるのではないだろうか。
■兵糧の準備は誰がするのか
兵糧の準備は誰がするのかについては、一般論で言うならば、出陣する将兵であると考えられていた。しかし、戦いが遠隔地で行われたり、長期におよぶと予想されることもある。その場合、個々の将兵が兵糧を準備するのは、極めて困難である。いや、不可能だろう。
将兵が腰兵糧を準備するのは、あくまで当座をしのぐためである。携行する兵糧は、干飯や味噌などのインスタント食品のようなものだった。とても個人では、たくさんの兵糧を持参することはできなかった。当時の人々は、一日に5合の飯を食していたというから、かなりの大食漢である。
兵糧の準備は、極めて重要だった。「腹が減っては戦(いくさ)ができぬ」とは、真実である。戦国時代初期では、戦国大名が他国に侵攻して城を攻撃しても、兵糧の調達が困難になり、撤退を余儀なくされる例が少なからずあった。兵糧が欠乏すると、将兵の士気が下がるのは当然である。
では、どうやって戦国大名は兵糧を調達したのだろうか。近隣の戦いでは、戦国大名が御用商人に兵糧の調達を依頼し、買い取っていた。遠隔地の場合は、その土地の商人と価格を交渉し、兵糧を調達した。むろん城には備蓄があったかもしれないが、長期戦を必ずしも想定していなかった。戦争に際しては、改めて調達する必要があった。
なお、乱取りといって、将兵が人々の食糧を強奪することもあったが、それは決して歓迎されておらず、かえって禁止されるようなありさまだった。
■中国大返しにおける兵糧の確保
では、肝心の中国大返しにおいて、兵糧はどうやって調達されたのだろうか。かつて、大河ドラマ「軍師官兵衛」では、将兵が握り飯を走りながら食べるシーンがあったが、きちんと握り飯を準備するなど想定しづらい。
中国大返しの前、秀吉は備中高松城(岡山市北区)を攻撃していたが、こちらも3ヵ月近い籠城戦となった。しかし、残念ながら、秀吉がどうやって兵糧を調達したのかは不明である。その後の中国大返しについても同様である。
あえて推測を試みるならば、秀吉は備前の豪商・来住氏と非常に懇意にしていた。おそらく秀吉は、来住氏あるいは備中の商人などを通して、兵糧を調達したと考えられる。秀吉が率いた軍勢は、約2~3万だったといわれているが、それなりの軍資金を持っていたのは自明のことだろう。
その後の行軍ルートでは、姫路、明石、兵庫、尼崎などを通過しているが、それらの都市には商人がいた。秀吉が彼ら商人と交渉し、兵糧を調達したのは明らかだろう。将兵は休憩を取って、食事をしていたのである。
■中国大返し成功の鍵は
中国大返しの成功の鍵は、秀吉の才覚によるところが大きいが、やはり兵站の確保とりわけ兵糧の確保にかなり注意を払っていたと考えられる。秀吉の戦いに長期の籠城戦が多く、しかも勝利をものにしたのは、周到な兵站の準備にあろう。
それにしても、番組では副島さんが岡山から姫路までの約100kmの道のりを見事に歩き切った。当時の人々は、今の人と違って健脚だったことを付記してきたい。