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【光る君へ】実は熱心な政治家だった。ドラマでは描かれない一条天皇の姿

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、これまで一条天皇と藤原定子の熱愛が詳しく描かれていた。しかし、一条天皇は熱心に政治に取り組んでいたので、その一面を紹介することにしよう。

 永延元年(987)に一条天皇が即位すると、摂政を務めた藤原兼家(道長の父)は政治を主導した。当時、一条天皇は幼かったので、それは致し方ないことだった。

 長徳元年(995)、藤原道隆・道兼兄弟(兼家の子)が相次いで没すると、一条天皇は道長(道隆の弟)を内覧に起用した。一条天皇が道長を摂政や関白ではなく、内覧にとどめたのには理由があった。

 一条天皇は自らの政治姿勢を積極的に打ち出すべく、あえて道長を摂政や関白に任じなかった。一条天皇は自らが主導して、長保元年(999)7月27日に新制と称される法令を発布した。

 新制とは、天皇や院の意思に基づき発布された公家法のことで、公家新制ともいう。それらは、宣旨・太政官符・官宣旨・院宣といった形式で発布されたのである。

 一条天皇が発布した新制は、太政官符の形式によるもので、全部で11ヵ条にわたった。その内容は、『新抄格勅符抄』巻十に収録されている。

 長徳4年(998)以降、疫病が蔓延したこともあり、翌年に「長保」と改元した。ところが、疫病は容易に終息することなく、長保元年(999)6月には内裏が火事で焼けるという災難に見舞われた。

 そこで、一条天皇は自ら主導し、道長らの力を借りつつ、新制を発布したのである。その際、新制では疫病や内裏の焼失といった社会不安を解消すべく、条文に反映させたのである。

 当時、社会不安が生じた際は、神仏に頼ることが珍しくなった。そこで、諸国の神社や国分寺などの修繕、仏神事の振興が奨励され、さらに贅沢の禁止、政務の励行なども条文に盛り込まれたのである。

 つまり、一条天皇は政務に励んでおり、社会不安を取り除くべく奮闘していたのである。

主要参考文献

佐々木恵介『天皇の歴史03 天皇と摂政・関白』(講談社、2011年)

倉本一宏『藤原氏 権力中枢の一族』(中公新書、2017年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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