立ちのぼる幻影の向こうに見えるものを探して〜トリニテ@ZIMAGINE【ジャズコラ#002】
2022年7月8日に東京・南青山のライヴスペースZIMAGINEで行なわれた新生のトリニテのステージを観ながら、昔のトリニテを思い出している。
ピアノの人は“世界”を創る人、その頭のなかにはすでに音がある。
メロディーをきっかけに音の輪郭を描こうとするヴァイオリンは、最初に目にしたとき(つまり前のトリニテ)にはそこに確信があってやっているのかと思っていたのだけれど、だいぶ前のあるライヴ(トリニテが発足してしばらく経ってから)で、「ようやくなにを考えているのかがわかった!」とMCで言っていたときがあったっけ。つまり模索し続けていたということになる。それもヒントのひとつ。
ヴァイオリン以上に難しいのがクラリネットの立場。本当に前のトリニテでは迷走しているようすが伝わっていた。これもしばらく経ってからのライヴで、カチッとハマったように見えたときがあったのだけれど、その次の回にはまったく異なったアプローチで仕切り直しをしていたりしたのだから、やはり“確信”というところにまでには至ることができない対象=楽曲が原因なのかもしれない。
新生トリニテでは、念入りに予習しているサウンドが、セットの中盤からどんどん崩れていく。これも迷走のひとつに違いない。おそらく途中で、それまでのトリニテを再現することでは存在しきれない“時空の溝”のようなものを感じ取ったのだろう。
今回の“リスタート”、そんなようすが垣間見られたものだから、以前から感じていたトリニテへの違和感を改めて思い出したわけなのだけれど……。
そこでフッと思い浮かんだのが、グリム童話の「ブレーメンの音楽隊」だった。
動物たちが自分の影で強盗を驚かせて追い払う、みたいな話だったと記憶しているのだけれど、トリニテの演奏に浸っていると、メンバーを含めてその場にいるみんなが“トリニテ“という幻影に惑わされ、忘れていたなにかをそれぞれの脳裏に(勝手に)映し出している──。
自由にできるということは(あるいは自由にやってよい/聴いてよいということは)、自分の裁量の範囲をどのように規定するかを委ねられるという意味で、過酷な“許可”なのだろう。
曲の再現性を追求するのではなく、曲のなかにどれだけ自分の裁量の範囲を広げられるか──。
それは例えば、演奏者がいかに巧く(見えるように)弾けるかでも、いかに気持ちよく弾けるかでもなく、しかも気持ちよく弾けないのでは意味がないという、相反したテーゼを包括した厄介な代物でもある。
だから悩まなければ先に進めないのだろうけれど、その葛藤があればこそ、曲の世界は生まれ変わっていくのかもしれない。
これが、トリニテを観ていて、曲と演奏の不思議な関係性を考察した現時点での仮結論。
トリニテ:壷井彰久(ヴァイオリン)、北田学(クラリネット)、井谷享志(パーカッション)、shezoo(ピアノ)
公式サイト https://trinite.me/