季節感と暦が一致することが多い立冬 「木枯らし1号」が一般的になった34年前の早かった木枯らし
季節感と暦の一致
令和4年(2022年)11月7日は、二十四節期気の立冬で、秋が極まって冬の気配が立ち始める日です。
もともと、二十四節気は中国で生まれたもので、月の運行をもとにした太陰暦で生活していた昔の人にとって、実際の季節とはずれないことから、農業等を行う目安でした。
昔の日本は、月の運行をもとにした太陰暦で生活をしていたといわれますが、二十四節気を用いて暦と季節のずれを正していた太陰太陽暦が使われていたのです。
しかし、大陸の中国で生まれた言葉を、海で囲まれた日本でそのまま使うと、大陸の方が早く季節が進むため、実際の季節とはほとんど一致しません。
ただ、昔の日本人の知恵として、例えば、「大寒(1月20日~2月3日)」であれば、これから冬で一番寒い時になるので頑張ろう」など、準備を始めるタイムラグを考えて、暦の上の季節と、実際の季節との差を利用していたのではないかと思います。
ただ、立冬は、この頃に「木枯らし1号」が吹くことが多く、季節感と暦が一致することが多いといえます。
「木枯らし1号」の新聞記事
木枯らしは、晩秋から初冬の間に吹く風で、冬の季節風の走りの現象です。
名称の由来は、諸説ありますが、吹くたびに紅葉を吹きとばし林を枯れ木立にしていくので、木枯らしと呼ばれているとされます。
昭和47年(1972年)にフジテレビ系列でヒットした、笹沢左保の股旅物時代小説で、主人公の異名でもある「木枯らし紋次郎」の出身地は、上州新田郡三日月村(群馬県太田市)であるように、群馬県など関東地方で顕著な現象です。
気象庁では、最初に吹いた木枯らしを「木枯らし1号」として情報を発表していますが、関東地方での発表は、東京地方(島しょ部を除く東京都)のみです。
また、東京地方以外では、近畿地方(2府4県をまとめて)だけの発表です。
これは、気象庁は、天気に関する問い合わせが多い東京と大阪に天気相談所を設置しており、そこで調査をしたという経緯と関係があります。
気象庁の天気相談所で、東京地方の「木枯らし1号」の情報を発表しだしたのは、昭和40年頃(1965年頃)と言われています(詳細不詳)。
日本気象協会の月刊誌「気象」で、「木枯らし1号」の記述があるのは、昭和43年(1968年)からですが、「木枯らし1号」が広く認知されるようになったのは、前述の「木枯らし紋次郎」がヒットした昭和47年(1972年)以降です。
新聞に、「木枯らし1号」の記事が最初に載ったのは、昭和48年(1973年)11月2日の朝日新聞朝刊と言われています。
ただ、昭和44年(1969年)11月7日の読売新聞夕刊に、気象庁とは関係なく「木枯らし1号」が吹いたという記事がありますので、昭和48年(1973年)の朝日新聞の記事は「気象庁が発表した木枯らし1号」の最初の記事ということになります。
「木枯らし1号」の定義は、時代とともに少しずつ変化しており、現在の定義となったのは、平成3年(1991年)からです。
(東京地方の「木枯らし1号」の定義)
10月半ばから11月末において、西高東低の気圧配置で、東京の風向が西北西から北、風速が毎秒8メートル以上のとき
(近畿地方の「木枯らし1号」の定義)
霜降(10月23日頃)から冬至(12月22日頃)において、西高東低の気圧配置で、総合判断で、近畿地方で風向が北よりの風、風速が毎秒8メートル以上のとき
天気相談所での調査
急増した天気相談業務に対応するため、昭和22年(1947年)1月6日には、中央気象台達(中央気象台内の規程)がだされ、正式に天気相談所が誕生しています。
同年3月31日に予報課の久米康孝庶務係長に天気相談所主任の辞令が出され、8名体制となっていますので、法的に認知された官制上の天気相談所の誕生は昭和22年(1947年)3月31日ということになります。
また、天気相談所主任の職名が天気相談所所長に変わり、天気相談所が拡充したのは昭和29年(1954年)からで、初代の所長は大野義輝氏でした。
大野義輝氏は、筆者が気象庁に新採用で配属された函館海洋気象台の台長でした。
大野義輝氏は、のちに2代目天気相談所長になる平塚和夫氏とともに、新聞記者等の求めに応じ、様々な調査を行い、情報を提供してきました。
お二人とも著作が多い方ですが、その中に「木枯らし1号」についての記述はなさそうです。ただ、「木枯らし1号の名称を最初に使ったのは大野義輝さん」という話はつたわっていました。
しかし、「木枯らし1号」について、現在とは「木枯らし1号」の定義は異なりますが、最初に具体的な調査を行ったのは、新聞記事にある小山博氏です。
天気相談所長になった宮沢清治氏と、天気相談所予報官の小山博氏のコンビは、新聞記者等の要望にこたえ、様々な調査を精力的に行っています。
当時の刊行物、例えば、気象年鑑の「日本のおもな気象要素別ランキング」の末尾などには、「(宮沢清治・小山博)」という署名があります。
気象庁の正式の統計だけでは、様々な要望に応えることができず、個人的に調査を行ったことを示すものです(気象庁の正式の統計では署名は入らない)。
4氏とも、一緒に仕事をさせていただく機会がありましたが、自然現象への感覚が鋭く、仕事に熱心で面倒見の良い大先輩という共通点がありました。
「木枯らし1号」という情報
気象庁が発表する「木枯らし1号」の記事が、昭和48年(1973年)に新聞に載ったといっても、昭和62年(1987年)までは、記事となっていない年も多く、世間的に認知されていたとはおもえせん。
杉並区の図書館で朝日新聞、読売新聞、毎日新聞の検索をしましたが、新聞等で「木枯らし1号」がよく取り上げられるようになったのは、昭和63年(1988年)10月13日に季節的に早い「木枯らし1号」で突風被害が発生してからのようです。
昭和63年(1988年)10月13日の日本列島は、大陸から高気圧が張り出して西高東低の冬型の気圧配置となりました(図1)。
東北の岩木山や八甲田山などで初冠雪となり、日光市などで初雪と早い冬の訪れで、東京の最大瞬間風速は20.9メートルでした。
そして、埼玉県では浦和市では5階建てビルの窓ガラスが割れて落下し、蕨市では飛んできた建材で主婦がケガをしています。
東京地方は、天気相談所で昭和26年(1951年)まで遡って「木枯らし1号」が求められていますが、この時の10月13日は、現在でも最早記録となっています。
病床におられた昭和天皇陛下が、側近に「木枯らし1号」の被害をお尋ねになったのもこの時の「木枯らし1号」です。
昭和天皇が崩御されたのは、お尋ねがあってから約3か月後の昭和64年(1989年)1月7日でした。
令和4年(2022年)の冬の指標
令和4~5年(2022~23年)の冬は、10月25~27日の寒気南下で始まったといえます。最低気温が氷点下となる冬日が、全国の約20パーセントで観測されました(図2)。
数日前には、最高気温が25度以上の夏日が、全国の20パーセント以上で観測されていますので、10月下旬の寒さは、実際の温度以上に寒く感じた人が多かったのではないでしょうか。
その後、しばらくは冷え込まなかったのですが、立冬の少し前から冬日の観測地点数が増えています。
冬の訪れをつげる指標に、冬日などの他に、初冠雪、初雪、初霜、初氷という初の字がつくものがあります。
令和4~5年(2022~2023年)冬の初冠雪は、9月30日に甲府地方気象台が富士山の初冠雪を観測したのを始め、これまでに初冠雪を観測する44山のうち、25山で観測しています。
これまで平年より早いのは富士山など12山、遅いのは(平年を過ぎているのに未観測の山を含む)10山、同日が4山と、早遅が拮抗していますので、初冠雪からみると、今年の冬の訪れは平年並みに推移しているといえるでしょう。
また、初霜は10月7日に札幌市で観測するなど、平年より早く観測されています。
さらに、初霜も10月7日に札幌市で観測するなど、平年より早く観測されています。
初霜と初氷からみると、今年の冬の訪れは平年より早そうです。
しかし、初雪は、稚内で11月3日、旭川と網走、函館で11月4日と平年より遅い発表となっています。
初雪からみると、今年の冬の訪れは平年より遅く、冬の訪れを示す「初」の字がついた指標はバラバラのことを示しています。
令和4年(2022年)立冬の天気
そして立冬の日、11月7日は、大きな移動性高気圧に覆われ、南西諸島や東日本の太平洋側、北日本の日本海側で雲が多くなるものの、概ね晴れる所が多い見込みです(図3)。
西高東低の冬型の気圧には程遠く、8日に日本海北部に予想されている上空の寒気を伴った低気圧通過後の冬型の気圧配置も、北日本中心になりそうです。
そして、東京はその後も平年より気温の高い日が続きそうです(図4)。
季節感と暦が一致することが多い立冬ですが、令和4年(2022年)の東京地方では、立冬を過ぎても「木枯らし1号」は、しばらく吹かない見込みです。
図1の出典:気象庁資料。
図2の出典:ウェザーマップ提供資料をもとに筆者作成。
図3の出典:気象庁ホームページをもとに筆者作成。
図4の出典:気象庁ホームページとウェザーマップ提供資料をもとに筆者作成。