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樋口尚文の千夜千本 第36夜「水の声を聞く」(山本政志監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

その一点の奇跡のために映画がある

当レビューはもちろん試写室で気になった作品を公開にさきがけて応援したい動機で綴っていることが多いが、と言って何か宣伝を背負っているわけでもないので、いたって気まぐれで間歇的な投稿を繰り返している。したがって2014年の晩夏に公開された山本政志監督の直近作『水の声を聞く』を今になってふれるマイペースさもご理解を頂きたいのだが、私はたぶん評論家や記者のなかでは最も早いタイミングでこの作品の試写を観て大いに刺激と感銘を受け、以後決して忘れたこともないし、それどころかいくつかの映画賞の選考で作品、監督、女優にわたって熱く推しまくっていたほどだ。だが、何かこの作品はどこか軽軽に言葉で語る気をなくさせるところがあって、ずっと黙って大切な記憶として愛でていたい感じであったのだ。それはこの作品が訴える主題の厳粛さゆえかもしれないが、さすがにこの偏愛する作品について何かひとことでも書き留めておかないと後悔しそうな気もしてきたので、いくらか野暮な言葉を捧げておく。

本作の物語の骨子はシンプルである。新宿のコリアンタウンで、在日韓国人のミンジョン(玄里)は友人の美奈(趣里)に誘われて占い商売をやって好評を博し、この才能が高じて新興宗教「真教 神の水」の巫女として大勢の熱烈な信者を集めるようになっていた。すでに広告代理店がバックについてノウハウを仕切るようになった「真教 神の水」では、水槽に張った水を媒介にしてミンジョンが託宣を聞くという秘儀が大きな売りであった。だが、絶望的な悲しさや貧しさ、ひいては狂気の淵にいる信者たちにふれるにつけ、ミンジョンはインチキな秘儀で彼らから金をまきあげることに心身ともに疲弊し、やがて本当の救済とは何かを考えるようになる。

そんなミンジョンに美奈は「真偽ではなくそういう信じさせる力というのが、それはそれで信者たちを救っているのだからそんなに悩むことはない」と言い訳を与えてくれて、当初はミンジョンもまあそれでいいのだろうなと気軽な気持ちでいた。だが、どうしても嘘を演じていることへの躊躇いをやり過ごせなくなったミンジョンは、自らのルーツをたどって韓国の民間宗教に学ぼうとするが、その過程で今まで知らなかった母や祖母をめぐる歴史の悲劇を聞かされることになり、決定的な思いに駆られる。それは大戦後のアンタッチャブルな暗黒史として半ば葬られている済州島四・三事件であり、この祖国からも差別され、さまざまな権力の武力行使によって蹂躙された土地で、ミンジョンは「地獄だった」どん底から人びとが救済を願って培ってきた宗教の系譜に打たれる。

こうしてミンジョンは、『ロビンソンの庭』や未完の『熊楠・KUMAGUSU』にもつながる自然と霊感に敬虔に心を委ねることになるのだが、はるか済州島から人びとの生に根付いてきた欲も得もない民間宗教とはまるで対極の、インチキ教義による霊感ビジネスを仕掛ける守銭奴たちからは一転商売上の邪魔者と目され、妨害の対象となるのであった。かくしてミンジョンが本格的な救済を目指して信者たちとともに自然のなかで営もうとした祭祀は、金がらみのやくざたちまで入り乱れる混乱のなかで頓挫させられる。ミンジョンの首がすげかわった教団は何もなかったかのごとく金儲けに血道をあげるが、こっぴどい挫折を味わったミンジョンは一路済州島へ向かい、ルーツに祈りを捧げる。本物の宗教とニセ宗教、心のためにあるものと金のためにあるもの、この違いを煮詰めてゆくうえで、主人公のルーツ探訪という側面を加えたことは脚本の大きな創意であった。

物語の本線はこんなシンプルなものだが、主演の玄里の素晴らしいシャーマンぶりを筆頭に、とにかく山本監督の選んだキャストたちがいちいち個性的で目が離せない。教団の幹部や信者はワークショップで抜擢した一般にはなじみのない顔ぶれだが、このおよそスポンサーがつかなさそうな異色の寓話を映像化する時に、もしもこれが既成の俳優ばかりであったらまるでつまらない作品になったことだろう。病んだ夫婦や狂った主婦などホンマモンではないかというほどの鬼気迫る感じだが、これとて俳優の面が割れていないことゆえの成果に違いない。そんななかでも特筆すべきはミンジョンの情けない父を演じた釜滝秋浩で、この正体不明のいい加減な感じはなかなか出せるものではない。そして、くだんの宗教をめぐる物語の本線に加えて、だらしなく金を無心して娘にパラサイトしている父とミンジョンの愛憎半ばした関係を横軸にしたことで本作はずいぶん奥行きを増したと思う。とにかくどこかで観たような商業的な物語が縮小再生産され続けているスクリーンにあって、この奇異なる、そしてラディカルな物語はとてつもなく面白く、知的なスリリングさに満ちていた。

問題作、異色作を次々に問うてきた山本監督だが、案外と長篇の前作『スリー☆ポイント』など、あまりの荒唐無稽さと自由さに試写室で腹を抱えて笑わされ、けっこう好きだった。まるで違うおもむきのシリアスな本作だが、しかし全篇に奇想を結い合わせてゆく山本印の文化的肺活量のでかさは健在である(それにしてもなぜ「愛燦燦」なのか?)。そして玄里という逸材にはかねて私も注目しており、早いうちから自分の映画にも出演を請うて期待を寄せていたほどだが、今回の日韓を背負った必然も魅力もある千載一遇の役柄を得て、みごとに輝いている。こんな監督の自在さと女優の思いの重なるところ、ラストにはタルコフスキー『ストーカー』のようななかなかイカした跳躍が待っていた。この煮詰めた先のある一点で彼岸に跳ぶ感覚も、いい映画にはつきものだという気がする。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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