阪神・原口文仁選手 “シニア時代の監督が明かす勝負強さ” 地元後援会イベントにて―後編―
阪神タイガース・原口文仁選手(25)の地元、埼玉県大里郡寄居町で24日に行われた野球教室は『原口文仁後援会』が主催でした。参加した約100人の子どもたちと触れ合って、サプライズのロングティー打撃では柵越えも披露。その模様は前編で、野球教室後に聞いたコメントと合わせて書いています。→<阪神・原口文仁選手「またゼロからのスタート」>
昨年は寄居町商工会青年部主催の野球教室前日、原口選手が小学生時代に所属していたスポーツ少年団、学童野球のチーム『寄居ビクトリーズ』(合併により2009年から城南キングフィッシャーズ、ことし9月からはキングフィッシャーズに名称変更)のクリスマス会にもお邪魔しました。田中静雄代表や藤村正嗣ヘッドコーチから伺った“文仁少年”の話はこちらでご覧ください。→<―シンデレラの魔法が解けない理由―阪神・原口文仁選手の故郷を訪ねて>
『原口文仁後援会』はキングフィッシャーズの皆さんが大きくかかわっておられ、田中代表が会長、藤村ヘッドコーチが副会長です。「ふれあう会」と題した野球教室が終わったあと場所を移し、今度は後援会の会員限定で「励ます会」が催されました。原口選手との写真撮影や質問コーナー、プレゼント争奪じゃんけん大会で盛り上がり、埼玉県などの関東だけでなく関西方面からも参加された皆さんは大満足だったようですよ。
私も参加させていただくにあたり、実は後援会の戸澤孝彦事務局長から事前に「岡本さんの記事を読んでいると方が多いので、もしよければ何かお話を」という打診があり、辞退するどころか5分と言いながら10分もしゃべってきました!秘蔵話というほどのものではありませんけど。
2割7分、2ケタHRを目指して
ここで少し、質問コーナーのやり取りをご紹介しましょう。
Q.来年キャッチャーとして目指す打率と、意気込みを。
「2割7分は打たないと、と僕の中では思っています。キャッチャーをやりたいと言ったので、そこに責任を持ってキャンプからアピールできるように準備していきたいです」
Q.ホームランはどれくらい?
「キャッチャーで2ケタってのはなかなか少ないので、2ケタホームランを目指していきたいなと」。場内からは「20本いけるよ~」との声も挙がりました。
Q.関西弁がうまくなったそうですね。
「関西にはもう慣れたと思いますが、関西弁は…自分ではよくわからないですね」と答えた原口選手ですが、野球教室のバッティング中に「アカン!」と言っていたのでは?と聞かれて「こっちに戻ってきたから、今はボケとかツッコミはもう控えめでやっているので。申し訳ないですけど、またよろしくお願いします」と返したもんで、会場は爆笑でした。
Q.原口さん、愛人にしてください!と女性ファンの方が。司会の戸澤裕之さんから「まだ新婚ですので、今のお話はなかったことに」という言葉も。本人は顔を赤くして笑っていただけです。でも冗談はさておき、質問は「横田選手が124番をつけることになりましたが、それについてどう思いますか?」というもの。
原口選手は「そうですね。いい流れの番号だと思うので、そのあたりは心配していないです。必ず、すぐ取れると思います」と答えました。原口選手は思いのほか長くつけてしまったけれど、横田選手には束の間の番号となりますように。2人とも同じ気持ちでしょう。
楽しいときはあっという間で、約2時間の「励ます会」もお開きとなりました。来シーズン、また観戦ツアーが企画されたときに原口選手は1軍にいて、しっかり打ってマスクをかぶって、後援会の皆さんを迎えられるよう頑張らないといけません。今度こそ。そして暮れにまた集まって活躍を喜び合えたら最高ですね。
最初はあまり目立たない子だった
ところで、昨年ご紹介した原口選手の小学生時代エピソードに続き、ことしは午前に行われた野球教室で、中学生時代をよく知る方にお会いできました。原口選手が3年間を過ごした硬式野球チーム『寄居リトルシニア』(2014年9月から深谷彩北リトルシニアに名称変更)の常木正浩監督です。深谷彩北の選手たちは、この日の野球教室で会場の準備や片づけなどを手伝ってくれていました。
常木監督自身も寄居町の出身で、今から23年前に寄居リトルシニアを創設。原口選手が入団したのは2004年のことです。どんな子だったかと尋ねようとした時に、常木監督からこんな言葉がありました。ちょっと予想外かもしれません。
「実は…あんまり目立っていなかったんですよ。過去の教え子には、鳥谷の1つ上でクリーンアップを打っていた松本とか目立つ子はいたけど、その5本の指に原口は入ってこない。10本だったら入るかなって感じです。同じ帝京高校へ行った星の方が打っていましたしね。高校でも原口は2年生まで下のチームにいたんじゃないかな。注目されてきたの、高校3年の関東大会あたりからなので。中学時代も、そんなに目立つ子ではなかったというのが正直なところです」
では、キャッチャーとしての原口選手はどうでしたか?「それがね、僕は知らないんですよ。彼は小学生の時から腰痛持ちだったので、3年間ずっとファーストじゃないかな。僕は上のチーム(いわゆる1軍)しか見ていないんですが、1年生大会でもファーストが多かったので。それとキャッチャーは高田という、上手な子がいたし。だから僕はキャッチャー・原口がよくわからないんですよ。すみません」。そうだったんですね。
「でも」と常木監督。「でも、やっぱり中学3年になると片鱗は出てきました。実は帝京高校へ行ったのも、ある1本のホームランがきっかけなんです。ギリギリのところで見せた勝負強さっていうんでしょうか。おととしの10月、就任が決まった金本監督に甲子園の秋季練習で“見つけてもらった”時のように」
中3の夏に放ったホームランから
常木監督が当時の記憶をたどり…というよりは今も鮮明に覚えておられ、つい先週のことみたいに話してくださいます。
「彼が中学3年の夏のことです。関東地区の代表を決める大きな大会で、シニアでは有名な世田谷西リトルと当たりまして。静岡も含む210チームくらいが全部で5回戦まで戦う中、世田谷西ってのはスーパーシード。3回戦から出てくるわけです」。東尾修さん(西武)が名誉会長を務める世田谷西リトルシニアは、関西でもご存じの方は多いでしょう。チーム創設時の監督は同じく西武OBの蓬莱昭彦さんで、2010年から2014年まで横浜とDeNAコーチを経て、現在は総監督です。
「その世田谷西との試合で、なんと原口が1回に2死から先制2ランを打った!それまで練習試合ですら打っていなかったのに。試合は7対2でうちが勝って、番狂わせって言われましたよ(笑)。なんせスーパーシードですからね。で、相手の監督だった蓬莱さんが原口のホームランを見て、『寄居の4番がいいよ』と帝京の前田監督に言ってくださったと。世田谷西の4番・佐藤も帝京志望、うちの3番・星も進学を決めていたんですけど、そこに原口の名前が出てきたというわけです」
本人はまったく予想していなかったと思われますが、そのあとは「帝京から話が来ているけど、どうする?」「ちょっと考えさせてください」というやり取りがあり、常木監督いわく「自分で考えたり、寄居ビクトリーズの田中代表にも相談して1週間か2週間後、返事をしてきました。お願いしますと。それで帝京の前田監督に星と原口の名前を伝えた」とのことです。プロに入ってから「蓬莱さんに会ったので、お礼を言いました」との連絡もあったとか。これまた不思議な縁とタイミングですよねえ。
最後は引きの強さ
でも縁だけじゃない。昨年の出来事を振り返るとき、そこへたどり着くまでの準備がなければ、何も起きていなかったかもしれません。常木監督も「去年の4月26日、夜10時くらいですかね。電話がかかってきて『あしたから1軍に行きます』と。食べていたご飯を吹き出しそうになりましたよ!支配下に戻るのと昇格と、まさに2段階特進ですからねえ」と昨年の春を思い出して笑顔に。そして、監督ならではの“予感”があったと教えてくださいました。
「次の日の試合、代打で出た初打席で打ったセンターライナーがよかった!あれを見て、いけると思いましたよ」。これが5回で、そのままマスクをかぶり8回の2打席目で初ヒット(左前打)を放ち、翌日は1点を追う9回1死二、三塁で初打点の中犠飛。次の日には背番号94を身に着け、ついに初スタメンと順調に進んだわけです。
「ああいう“引きの強さ”は当時からあった。一緒に帝京へ進んだ星が3番、原口が4番で、ツーアウトランナーなしから点を取ってくれましたからね。原口がプレッシャーに強いのは昔からです。チームを作って23年になりますが、チャンスでの強さは歴代ナンバーワンでしょう」
中学時代も高校時代も、さらにプロ入り後も、最初から人の前を走っていたわけではないけど「練習はイヤな顔ひとつしないでやる。いつもニコニコしていたことしか記憶にないですね。プロでここまでやれているのは豊富な練習量のおかげでしょう。誰にも負けない量を、イヤな顔せず楽しそうにやっていた」と常木監督。
「うちにいたときも一番練習していた。とにかく“痛い”と言わない。先ほどの中学3年の大会でも勝ち進む中、原口はもう腰が痛くてファーストも守れない状態で…思い切って外しました。あの子の将来を考えて。プロまで行ってほしいと思っていましたからね」。本人は?「そりゃあ出たがりました。何ともないと言って。でも見ていてわかったのでね。そういうのはだいたい親御さんが申告してくるんですよ。例えば“うちの子、腰が痛いみたいだ”って。でも原口のところは親御さんも、本人もまったく言わない。逆に珍しかったです」
もしかしたら、腰の痛さより試合に出られない方が辛かったのかもしれない。原口選手を見ていると安易に想像できてしまいますね。最後は常木監督の言葉で締めましょう。
「一(いち)野球選手としてもすごいけど、心配りができて、人間的にも本当にいいヤツ。私の誇りです」
☆おまけ☆
昨年の記事でコメントを紹介した親友・正木裕人さんと、ことしはもう1人の親友である戸澤秀志さんにも会えました。2人は小学校と中学校が同じ、寄居ビクトリーズのチームメイトでもあります。しかし当日は野球教室のお手伝いなどで忙しく、戸澤さんにお話は聞けずじまい。そんな中、正木さんの奥さん・知茜(ちせ)さんも中学の同級生だったということで、ちょっと昔のことを伺いました。
中学時代、原口選手はモテていた?「かくれモテキャラですね。真面目で優しくて、あまり目立つことはしないけど、実はモテるという。先頭切って悪いことをするタイプじゃない」。ここで正木さんのお母さんが「うちのはそういうタイプです」と申告されたもんで、一同大笑いです。
ちなみに勉強の方はそうだったんでしょう。一応聞いてみたところ、答えは「……」。見事に全員が無言だったのは予想通り。ま、いっか!
寄居町の皆さま、後援会の皆さま、ご家族やお友だち、すべての方々に感謝です。そして原口選手の後輩・市川弘晃さんのは当日、ホテルから球場、球場から食事会場、そこから最後は駅まで車で送っていただいて…。大変お世話になりました。また笑顔いっぱいで寄居の皆さまとお目にかかれるのを楽しみにしています。本当にありがとうございました。
<掲載写真は筆者撮影>