―シンデレラの魔法が解けない理由― 阪神・原口文仁選手の故郷を訪ねて《前編》
――童話のシンデレラが幸せをつかんだのは、お城の舞踏会へ行けたから。ただし、それには魔法使いの助けが不可欠だった。現実の世界にカボチャの馬車はないが、想像だにしなかったチャンスという “ガラスの靴” は存在するのかもしれない――
昨年、超変革の目玉になり『シンデレラボーイ』と呼ばれた、阪神タイガース・原口文仁選手(24)。チャンスが訪れたタイミングもよかったと思いますが、やってきた波に乗るための準備と、それを操れる力も、彼にはあったということでしょう。“魔法”はシーズン終了まで解けませんでした。
昨年末、原口選手が生まれ育った埼玉県大里郡寄居町を訪れる機会があり、子ども時代を知る方々にお会いして、その思いはさらに強くなったのです。前後編に分けて、地元の皆さんのお話をご紹介します。まずは前編、クリスマスイヴの巻からどうぞ。
可愛い“後輩たち”と過ごしたイヴ
今まで味わったことのないシーズンオフ、イベントやテレビ出演などを終えて地元へ帰ったのは12月24日の午後です。すぐに実家へ?と思いきや、家の前を通り過ぎて向かったのは鉢形コミュニティーセンター。そこでは、原口選手が小学生の時に所属していた野球チームのクリスマス会が行われていました。
大きな拍手で迎えてくれた数十人の子どもたちと保護者の皆さん、代表や監督、コーチの方々。年内の練習が最後の日に、こうやってクリスマス会を開き、原口選手はプロに入ってからも毎年欠かさず顔を出しているそうです。多忙を極めた昨年末も「変わらずに来てくれた」と皆さんは大喜び。
さっそく始まった質問タイムでは「キャッチャーをやろうと思ったのはなぜですか?」という問いに、自身のタブレットを出して「ジャイアンツの阿部選手に憧れたから。(熊谷市の)八木橋デパートであったサイン会に行った時の写真がこれ」と見せます。阿部選手と握手するため、必死でつま先立ちする文仁少年の姿が写っていました。小学校5年生のお正月だったので、会場にいる子どもたちと同じくらいですね。
そのあとも「盗塁を刺したことはありますか?」と聞かれ、「楽天戦は走られまくりでしたねえ。嫌なチームです」と返して会場は大笑い。「球が速くなるにはどうしたらいいですか?」「ピッチャーじゃないんで。でも体を大きくすれば球も速くなると思うよ。夜10時までに寝ること!」というやり取りもありました。原口選手も10時までには寝ていたんでしょう、きっと。安易に想像できます。
「チームの中でライバルは誰ですか?」という質問には「みんながライバルです。1軍でキャッチャーをできる人は1人しかいないから」と回答。そして「キャッチャーをやる時の気持ちを教えてください」と言われ「まずピッチャーを助けたいという気持ち。勝った時は嬉しい。だから勝つためにどうすればいいかを考えています」と、真剣に答えていました。
終盤になると「結婚はまだですか?」「年俸は何万円ですか?」など、思わず苦笑いの質問も。小学生から“年俸”という単語が出てきてビックリしたけど、何千万円や何百万円ではなく「何万円」ってのが可愛いでしょう?それと「すごいピッチャーは誰ですか?」と聞かれた時は「DeNAの今永投手。あの真っすぐは狙っても打てないですね。大谷くんもすごい。オーラがあるし、球は速いし。真っすぐを待っていて変化球が来たら、おおー!ってなる」と答え、子どもたちも「へええ~」と興味津々です。
「彼は私の誇りです!」
写真撮影など交流が続く間に、関係者の方からお話を伺いました。まずこのチームについて。昔のスポーツ少年団は1つの小学校で1つのチームがあったそうですが、少子化の影響を受けて、原口選手が通っていた鉢形小学校の『寄居ビクトリーズ』も、のちに折原小学校の『折原イーグルス』と統合、『城南キングフィッシャーズ』となりました。さらに平成28年度からは『城南』が取れ『キングフィッシャーズ』に変わっています。
長らく代表を務めておられ、昨年10月に発足した『原口文仁後援会』の会長でもある田中静雄さんは「彼は4年生の時に入団してきました。当時は体が小さくて、コロッとしていましたねえ(笑)。うちに初めて、野球をやりたいと言いに来た時はお母さんと一緒で。というか、お母さんに言ってもらってね。私が怖かったんでしょう。子どもでも怒るから」とニヤリ。
その言葉通り田中代表は、見た目もさることながら(すみません!)、この日も人の話を聞かなかったり勝手な行動をしたりする子には、すかさず雷を落とします。子どもたちは相当ビビッている感じでした。こういう大人は必要だと思いますね。
「5年生になる頃、たまたまチームが強くなった時期に、ちょうどキャッチャーがいなかったんですよ。そこで自分から申し出てきて」。この時も自分で言えず、お母さんに言ってもらったみたいです。「キャッチャーやりたいって言って」と頼んで。ところが、実は親戚のおばさんに買ってもらったキャッチャーミットを既に持参していたとか!代表も「私に断りなくミットを買ってきていた」と笑っておられました。確信犯?(笑)
「小さかったし、最初はキャッチャーなんて無理かなあと思ったんだけど、根性のある子でね。私に怒られて涙を見せなかったのは、長い歴史の中で彼ともう1人しかいない。5年生でキャッチャーになってからは、エースでキャプテンの子(6年生)が、彼の指示しか聞かないくらい信頼していました」
そこには原口選手の人間性も大きく作用していたようで「野球の頭がいいんですね。冷静で。初めての県大会でも、相手チームの4番打者が打席に立った時、バットに必ず入っていなければならない少年野球用のマークがない、と審判にアピールしたんですよ」と田中代表は、つい先日のことみたいにおっしゃいます。
最後に「素直で謙虚、それと頑固でもあります。自分で正しいと思ったらキチッとやる子。正直言って、彼は私の誇りです。長年やらせてもらって、社会に出ていく子どもたちを大勢見ていますが、その中でも飛びきりですね!」と、本当に嬉しそうな顔でした。
強さと優しさを合わせ持った選手
続いて藤村政嗣ヘッドコーチのお話です。「彼は洞察力がすごかったですね。相手チームのサインを見抜いてアウトにしたこともありました。5年からキャッチャーを始めてレギュラー取って、県大会では400以上あるチームの中でベスト8へ進出した。これはうちのチームで最高の記録なんですよ」。翌年はチームとして史上最強だったものの、クジ運に恵まれず記録更新がならなかったとか。
どんな選手でしたか?「いつも野球のことばかり考えていました。野球に関しては真面目!バッティングもよかったですね。5年生の頃はそうでもなかったけど、でも5番や6番を打っていて、6年生ではずっと4番。大事なところで打ってくれていました。今のバッティングフォームを見ていると、体はあの頃と全然違うけど、インパクトの瞬間とか同じなんですよねえ」と懐かしそうな笑顔でした。
まだまだエピソードが出てきます。「強さと優しさを持っていた。彼が6年の時に埼玉県北部の結成記念大会で優勝したんです。その表彰式で、大会直前に入団したばかりの同級生がいて、その子のメダルがなかったため自分の分をかけてあげていました。自分には別の(個人)賞があったからと思いますけど、常に周りを見られる子でしたね。空気を読んで。それも洞察力でしょう」
原口選手が見せてくれた1枚の写真。そこにはキャッチャー・原口少年が写っています。小学校6年生の終わりごろの試合だったというので、14年くらい前ですね。先日、帰省した際に仲のいい友だちが自宅にあったものを手渡してくれたとか。うわ~今とおんなじ!と驚いていたら、本人も「でしょう?」と笑っていました。この立ち方、ピッチャーや守備陣へ視線を向ける横顔…。変わらないものなんですねえ。貴重な1枚をありがとうございます!
この日参加していた子どもたちは、もしかすると昨年初めて原口選手をテレビで見たかもしれません。あの甲子園で、東京ドームでホームランを打ったのが、いつもここに来てくれていたお兄さんなんだ…と実感したかも。それは小学5年生の時、阿部選手の手を握った文仁少年と同じように、いつか必ず大きな意味を持つでしょう。
7年間、使い続けたユニホーム
ところで、キングフィッシャーズの子どもたちが着ていたユニホームですが、翌日の野球教室で見たらズボンの左腰に文字が入っています。近づいて確認すると『Tigers52』と書かれていました。
チームの方がおっしゃるには「原口選手がプロに入った時、これまでの感謝を込めてと寄付をしてくれたんです。そのお金で25人分のズボンを作りました!」とのこと。その思いに応えて『Tigers52』と、原口選手の背番号を刺繍したのだとおっしゃいます。
その刺繍も7年目で糸が薄くなっている部分もありましたが、実はことし3月にチームのユニホームが一新されるそうなんです。上下とも変わるので、この写真が見納めとなりますね。また7年前に少年野球用のキャッチャーミットも購入されていて、そこにも『52』の文字があります。今はキャプテンの鳥塚大輝くん(ポジションはピッチャーとキャッチャー)が大事に使っていると聞きました。ミットと一緒に、原口選手の野球への思いも引き継いでいってほしいですね。
翌25日に行われた野球教室や、親友が語る思い出話など《後編》へ続きます。こちらからどうぞ。<根っこにある“オンリーワン”の想い…>