大河ドラマから消えた今川氏真。あまりに悲惨な生涯をたどる
大河ドラマ「どうする家康」では、すでに今川氏真が姿を消した。今回は、あまりに悲惨だった氏真の末路をたどることにしよう。
今川氏真が掛川城(静岡県掛川市)を開城し、徳川家康らの軍門に降ったのは永禄12年(1569)5月のことである。掛川城を出た氏真は、小田原の北条氏を頼った。翌年、氏真は国王丸(北条氏政の嫡男。のちの氏直)を猶子に迎えたのである。
その後、北条氏の外交方針の変更があり、武田氏と同盟を締結した。氏真は武田氏に奪われた駿河の回復を悲願としていたが、それは叶わなかった。以後、氏真は流浪の旅に出て、天正3年(1575)3月には、京都で織田信長の求めに応じて、蹴鞠を披露した。信長に父を殺されたのだから、誠に皮肉な話である。
天正4年(1576)、家康の配慮もあり、氏真は牧野城(静岡県島田市)を任されたが、翌年には城主の地位を解かれたという(諸説あり)。その後の氏真の動向は、ほとんど史料にあらわれなくなるが、最終的に京都に向かったようである。
天正19年(1591)、氏真は仙巌斎(仙岩斎)という斎号を名乗り、京都に移り住んだ。京都では、旧知の冷泉為満らの公家と親交を深め、和歌の会、連歌の会に参加したり、古典を借用して書写したりしていた。京都時代の氏真は、家康や豊臣秀吉から財政援助を受けていたという。
慶長年間に入ると、氏真の子は徳川秀忠に出仕していたので、徳川家から何らかの支援があったと考えられる。慶長17年(1612)、氏真は家康から近江国野洲郡長島村(滋賀県野洲市)に5百石を与えられたが、その間の慶長12年(1607)には長男を病気で失った。
慶長17年1月、氏真は冷泉為満邸で催された連歌会に出席した。同年4月、氏真は駿府(静岡市葵区)で家康と面会し、品川(東京都港区)に屋敷を与えられたが、翌年に妻の早川殿が病没した。以後、氏真は品川に移り住んだと考えられる。
氏真が江戸で亡くなったのは、慶長19年(1614)12月28日である。葬儀は、弟の一月長得が執り行った。氏真と早川殿の墓は、観泉寺(東京都杉並区)にある。流転に次ぐ流転で、寂しい晩年だったといえよう。