承久の乱後、なぜ後鳥羽上皇らは死罪ではなく、流罪になったのだろうか
現在、死刑制度のない国もあるが、我が国にはまだ残っており、いつも厳しい判断が強いられている。それは鎌倉時代も同じで、鎌倉幕府は承久の乱後に後鳥羽上皇らの扱いに悩んだと思われるので、考えることにしよう。
承久3年(1221)6月、承久の乱が勃発した。承久の乱とは、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府に挙兵したが、幕府軍に敗北した事件である。
乱後、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は流罪という厳罰が科され、仲恭天皇は廃された。代わりに後堀河天皇が即位し、後堀河の父の守貞親王(後高倉)が院政を行うことになった。
この人事は朝廷ではなく、幕府が決めたものだった。後鳥羽方に与した公卿・武士の所領は没収され、中には斬首された者もいたのである。
承久の乱後、なぜ三上皇は流罪に処せられたのであろうか。その理由を明快に記した史料はないので、以下、私なりに理由を考えてみたい。
そもそも幕府には、朝廷を滅亡に追い込もうという考えはなかったと考えられる。一方で、幕府は東国における武家政権の威勢を示し、朝廷を相対化させる意思があったと推測される。
そのためには、朝廷から反幕府勢力を一掃することが重要であり、それは天皇・上皇であっても例外ではなかった。それゆえ、朝廷だけに限らず、朝廷に加担した武士たちも処罰の対象となり、徹底して弾圧したのは当然のことだった。
もっとも肝心なのが人心の一新であり、首謀者の後鳥羽らは流罪という厳しい処分が科された。幕府は朝廷の人事に介入することにより、その権限はいっそう高まったと考えられる。
ただし、後鳥羽ら三上皇については処刑すべきだったかもしれないが、さすがに憚られたであろうから、代わりの処罰が検討されたのである。
天皇や上皇の処刑を行うことは前代未聞のことであり、世上を動揺させる可能性があった。そうなると、死罪に次いで重い流罪を科すのが妥当という判断になった。保元の乱において、負けた崇徳天皇が流罪になったという先例もある。
幕府は天皇、上皇といえども、流罪という厳しい処分を科すことで強い態度を示し、のちの憂い(以後、反旗を翻す者が出ないよう)を断つことを目的にしていたと考えられる。
補足しておくと、後鳥羽の皇子の雅成親王は但馬国に、頼仁親王は備前国へそれぞれ流罪となった。皇子が首謀者と血縁関係があるため、縁座を適用されたのである。
その後、雅成親王は但馬からの逃亡を企てたが失敗に終わり、建長7年(1255)に同地で没した。頼仁親王も無念の思いを抱きながら、文永元年(1264)に備前児島(岡山県倉敷市)で亡くなったのである。