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「どうする家康」、譜代の家臣鳥居氏は熊野の出

森岡浩姓氏研究家
鳥居氏発祥地の碑(筆者撮影)

大河ドラマ「どうする家康」に、松平氏の譜代の家臣として登場している鳥居忠吉・元忠父子。

イッセー尾形扮する忠吉は当主不在の岡崎城を預かり、音尾琢真扮する子元忠は人質時代から一貫して家康に仕え続け、最期は敗れることを覚悟して伏見城を守ったという、親子2代の忠義者である。

鳥居氏のルーツ

鳥居氏の出自は平氏とも熊野別当の一族ともいうが、一般的には、熊野の鈴木重高の末裔である重氏が鳥居法眼と称したのが祖とされている。

鈴木氏は紀伊半島の熊野地方に古くから栄えた一族で、熊野信仰の拡大とともに全国に広がっていった。

『寛永諸家系図伝』や『藩翰譜』では、重氏の子忠氏が、父との不和から三河国渡(現在の愛知県岡崎市渡町)に移り、その17代の孫にあたる忠吉が岡崎城主となった松平清康に仕えたという。

ただし、忠吉以前の鳥居氏の動向ははっきりせず、忠吉が岡崎城主の松平氏に仕えたことで、鳥居氏は歴史上に登場した。

三河鳥居一族の本拠地である岡崎市渡町の矢作川のたもとには、「鳥居氏発祥地」と書かれた碑が建てられている。また、鳥居氏は商人としての側面もあったともいわれる。

鳥居忠吉の活躍

忠吉が松平氏に仕えた頃、清康・広忠と2代続けて当主が不慮の死を遂げた岡崎城主の松平氏宗家は、一時期一族の桜井松平家に惣領の座を奪われるほどに弱体化していた。さらに、当主となった竹千代(のちの家康)は駿府で今川氏の人質となっており、当主不在の松平領は今川氏の代官に治められていた。

このとき、忠吉は岡崎で総奉行をつとめ、家康の帰還後の活動にそなえて密かに城内に物資を蓄えたことで知られる。

鳥居元忠とその子孫

忠吉の長男忠宗は天文16年(1547)の松平信孝の謀叛で討死、二男は僧侶となっていたことから、三男元忠が今川氏の人質となっていた当主松平竹千代に近侍した。家康より3歳年上で、弘治元年(1555)には家康とともに元服。元忠の「元」は今川義元から賜ったものとされる。

父忠吉が死去すると鳥居氏の家督を継ぎ、以後は多くの戦功をあげた。天正18年(1590)の関東入国後は下総国矢作で4万石を与えられ、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際しては、家康留守の伏見城を預かって西軍に攻められ、戦死した。

江戸時代、嫡流は出羽山形22万石の藩主となるが断絶、分家が下野壬生藩主として存続した。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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