中国は天安門事件を消せるのか?〜19歳の息子を失った母
写真を撮って捕まった男性
その日は、運悪く雨だった。綺麗に刈り込まれた緑の溢れる一画に、迷彩塗装された古い戦車や大砲が展示されている。湖南省株洲市にある革命烈士記念公園。誰でも自由に入れるこの空間は、晴れていれば家族連れで賑わう市民の憩いの場である。
陳思明さん(55歳)の自宅は、そこから車で10分ほどのところにある。陳さんは私を自宅に招き入れると、携帯電話をいじり、写真を見せてくれた。陳さん本人が「六」と「四」を掲げ、あの戦車の前に立っている。
六四とは、1989年6月4日を意味する。民主化を求める学生らのデモを人民解放軍が武力鎮圧した「天安門事件」の日だ。
当時、北京で起きた学生デモは、中国の他の都市にも伝播した。陳さんは既に社会人だったが、学生たちの主張に共感し、地元のデモに参加したという。
「良心を持っている中国公民として、全ての人々、次の世代の人々に歴史の真相を知らせたい。六四は私自身が経験したことですから」
「六」と「四」を掲げた写真は、去年、天安門事件を記念するために撮影した。知人を介してインターネット上に流れた翌朝、警察官から出頭を求められ、5日間の身柄拘束を受けた。写真は当然、ネット上から削除された。
陳さんは、一昨年も身柄拘束を経験している。その時は、6本と4本のろうそくを灯した。
天安門事件は、中国で今もタブーなのだ。
「(天安門事件については)話してもいけないし、記念してもいけない。真相を隠している。歴史を偽造し隠蔽している」
六四を忘れてはいけない
陳さんに話しが聞けたのは4月。事件から30年になる今年も何らかの行動を考えていると話していた。しかし、6月4日が近づいた先月末から、陳さんは警察に強制的に「旅行」させられ、自宅から引き離されている。
警察に捕まるのを覚悟で、訴え続ける陳さんは、こう話していた。
「六四を忘れてはいけない。中国人はみな六四を知るべきある。あんなに大勢が亡くなったのですよ」
「動乱」として見放された学生たちの思い
天安門事件のきっかけは、4月15日、改革派の胡耀邦総書記に死去にある。追悼のために首都北京の天安門広場に集まった学生らは、民主化を要求した。
この学生運動を、共産党の機関紙「人民日報」は、4月26日の社説で「党の指導と社会主義制度を否定する動乱」と定義づけた。さらにこの「動乱」には「旗幟鮮明に反対せねばならない」という立場を明確にした。
そして6月3日から4日にかけ人民解放軍が学生デモを鎮圧した。この際の死者について、同月に開かれた全人代常務委員会の報告では、大学生36人を含む200人余り、9月に李鵬首相が日本の議員団に語ったところでは319人とされる。しかし、実際にはさらに多数が犠牲になったとみられている。全貌は今も明らかにされていない。
香港では天安門事件の記念館も
グルメに買い物・・・多くの日本人にとって香港のイメージは活気に満ちた観光天国だろう。北京に住んでいる私には、香港と聞いただけでだけも心が浮き立つもう1つの理由がある。中国本土と違い一定の言論の自由が保たれているからだ。
4月26日。天安門事件から30年となるのを前に、事件を記念する博物館がオープンしたのは、そんな香港ならでは、である。香港や海外のメディア100人近くが、決して大きくない博物館に詰めかけた。
報道陣の高い関心を前に、六四記念館をオープンさせた市民団体の責任者、何俊仁さんは(67歳)は、熱く訴えた。
「歴史の真相を保存し、権力者に真実を伝えるのが目的です。六四の再評価を求め、虐殺の責任を追及します」
被弾したヘルメット
六四記念館には、写真や新聞といった当時の資料が集められている。その展示物の中に、1つのヘルメットがあった。
バイクに乗る時にかぶるような耳まで覆う形。赤い塗装が大きく剥げている。内側を見ればよく分かるが、頭の左後ろに当たる部分がえぐれ、穴が開いている。
ヘルメットを被っていたのは王楠さん。当時学生で、添えられている死亡報告書には、1970年生まれ、死亡当時19歳と記されている。脇に置かれた眼鏡は左のレンズが無い。六四記念館管理委員会の麦海華主さん(68歳)が、こう説明した。
「額から入った弾丸が後頭部に貫通していることを示しています。軍が発砲したことを示す物証です」
息子を失った母は
天安門事件で、頭に銃を受け死亡した19歳の王楠さん。その母は、今も北京に暮らしている。
4月のある朝、その母を訪ねた。
張先玲さん(87歳)は、「もう血圧が高くて・・・」と言いながら、ゆっくりとコップ一杯の水を飲んだ。整頓された部屋の白い壁には、眼鏡の青年の白黒写真があった。息子、王楠さんだ。
「あの日、息子は『歴史の真実を記録したい』と言って出かけました」
王楠さんは、写真を撮るのが得意だったという。
ヘルメットは息子の形見だったが、手元に置かず、博物館に寄贈した。その理由を次のように明かす。
「博物館にあれば、たくさんの人に見てもらえます。少なくとも香港の人は見られるし、大陸から香港に行った人も見られます。銃を撃って人を殺したのは、事実であり、捏造でないということの証拠になりますから」
張さんは、事件で子供を失った親たちとともに、政府との対話を求めている。
しかし、政府側は、対話には応じようとせず、張さんの行動や通信を監視してきた。特にメディアと接触させないようにしているという。「(約束して)記者たちに会おうとすると、警察の方が早く来る」といって張さんは笑う。
今も続く天安門事件
「要求は非常に簡単です。六四の真相です。殺人の真相、殺人が正しかったかどうか。なぜ殺す必要があったのか。何人殺したか、を公表し、個別の件に対し立法して解決した上で、謝罪・賠償することです」
民主化を求め天安門広場に集まった学生たちの行動を、当時の共産党の機関紙「人民日報」は「党の指導と社会主義制度を否定する動乱」と定義づけた。中国政府は、天安門事件について「1989年の政治的騒動については、すでに評価を定めている」という立場だ。
しかし、張さんは、息子の遺影の下でこう言う。
「当然、まだ終わっていません。天安門事件の母たちが1人でも生きていたら、私たちは訴え続けます」