新人調教師が、開業ダッシュを決めた背景にある「引退間際の伯楽の言葉」とは?
開業と同時にダッシュを決める!!
4月16日の福島で、フルールが勝利。開業後、僅か1カ月半で、これが早くも3つ目の勝ち星となったのが、平成生まれ初の調教師・上原佑紀(33歳)だ。
「転厩して来たばかりの馬達で、幸運でした」
本人は謙遜してそう語る。しかし、この3勝がそれぞれ11、5、8番人気と評価以上に走らせてみせたのは事実。負けたレースでも善戦するケースが多く、4月23日の競馬を終えた時点で21走中8回が3着以内に健闘。その複勝率は4割近くに達している。
父はあのダイワメジャーを育てた上原博之。しかし、佑紀と話していると、父以上に様々な先輩ホースマンから学んで来た事が分かる。
ヨーロッパの師匠達
学生時代、乗馬に明け暮れていた彼が調教師を目指すようになり、競馬学校に入学する前に向かったのがヨーロッパだった。
「ノーザンファーム空港牧場で勤めた後、イギリスとフランスに行きました」
イギリスではニューマーケットへ行き、伯楽ウィリアム・ハガスのサマーヴィルロッジを訪ねた。
「『馬の少しの変化にも気付けるように常に目を光らせなさい』と言われたのが印象的でした」
実際にこんな場面にも遭遇したと続ける。
「定期的に行っている歩様チェックの際、獣医が『問題ない』と言っているのに、ハガス調教師がストップをかけるシーンに幾度となく立ち合いました。100頭以上いる管理馬をしっかり把握出来ているからこそ、自信を持ってジャッジ出来るのだと思いました」
お別れの時は、涙を見せてくれたというイギリスの師匠に対し、上原は「いつか調教師になって、恩返しの意味でもハガス調教師の馬と対戦しなくてはいけないと誓った」と言う。
ハガス厩舎を後にすると、フランスへ渡った。ここではかの地で開業する日本人調教師の小林智に師事した。
「日本人がフランスで調教師としてやっていくのは凄く大変だと思うのですが、しっかりと活躍されていて、とても刺激になりました」
国内外を飛び回って研修
帰国後、競馬学校を経て美浦トレセンで働くようになると、19年からは堀宣行厩舎で調教助手として汗を流した。
「堀調教師の、馬優先主義を貫く姿勢には感服させられました」
こうして21年12月、調教師試験に合格すると、開業までの1年と少しの間にも、寸暇を惜しむように世界中を渡り歩いた。
「サウジアラビアやドバイ、アメリカのケンタッキーダービーにブリーダーズC、それからフランスの凱旋門賞や韓国へも行きました」
勿論、目線は遠くばかりを見ていたわけではない。国内でも国枝栄厩舎や、栗東へも行き、矢作芳人厩舎、武幸四郎厩舎に中内田充正厩舎らの門を叩いた。
「考え方ややり方も違うのに、それぞれ結果を残されている。どの厩舎でも『さすが!!』と考えさせられたし、勉強になる事ばかりでした」
引退間際の伯楽の言葉
そんな中、調教師試験に合格してすぐに面倒を見てもらったのが藤沢和雄調教師だった。
「僕が研修に行かせていただいてすぐの22年2月には引退されてしまいました。そんなバタバタしている時でしたけど、藤沢調教師から学ぶなら今しかないと、思い切ってお願いしたら歓迎してくださいました」
そう言うと、以前、ニューマーケットへ行った際のエピソードも口にした。
「そもそも僕がニューマーケットへ行ったのも、藤沢調教師が昔、そこで学ばれていたと聞いたからでした」
そして、実際に名調教師の下で研修をすると、毎日が“学び”の連続だった。
「『走らないと思うような馬でも、先入観に囚われると、持っている能力に気付けなくなる』という言葉は勉強になりました」
胸に刻み、開業後も常に実践した。現在の好成績と、この姿勢は決して無関係ではないだろう。上原は続ける。
「藤沢調教師は、引退まで1カ月を切った時点でも『今でも勉強させられる』とおっしゃっていました。それが凄く印象に残っています」
あれほどの実績を積み重ねて来た男が、引退を間近にしてなお、勉強していた。開業したばかりでまだ実績のない調教師が、勉強しないわけにはいかないと、心に誓った。
このように様々な先人から学んで来た成果が今回の好ダッシュにつながったのは疑いようのない事実だ。とはいえ、上原佑紀の調教師人生はまだ始まったばかり。本当に花開くのはまだ先だ。その日が来るのを楽しみにして待とう。
(文中敬称略、写真提供=平松さとし)