私たちは被害者にも、加害者にもなりうる「3つの感染症」〜人間的成長のチャンスとしての新型コロナ〜
新型コロナの流行は、人間社会の脆さはもちろん、人間性についても多くのことを教えてくれている。時として人間の醜さが露わになる。あちこちで発生している嫌悪、偏見や差別事案はその証拠でもある。
むろん日本に限られたことではない。場所によってはアジア人というだけで罵倒され、病院勤めというだけで石まで投げられている。日本も無視はできない。例をあげれば、京都でクラスターが発生した大学の関係者に対する嫌悪、偏見や差別は相次いでいる。学生はアルバイト出勤も、客としての入店も拒否されている。教職員に関しては子供の登園が断られ、嫌がらせや脅迫電話が鳴り止まないという。組織名を出すだけで影響が出ると関係者が嘆いている。一番の被害者である患者に、身近で心配し共に戦う身内と、命がけで看病をする者が攻撃のターゲットになっているとは、なんとも不思議である。だがそのことを冷静に判断できないのも人間のさがのようである。
2011年の震災後に福島でも似たようなことが起きた。被災地でボランティア活動をしている合間に被災者の話を聞くと「福島ナンバーだとガソリンスタンドに断られた」、「住所を聞かれて福島ということでホテルの宿泊が叶わなかった」「被災地からということで孫が転校した学校で虐められた」などがあった。被害により苦しみを強いられた者が、続けて嫌悪、偏見や差別という二次被害にも見舞われるという現実。日本社会で同じような経験をした者は福島の原発被害者に限らない。ハンセン病の被害者も、広島や長崎の原爆の被害者なども同様な経験をしている。自分の責任ではないことで嫌悪、偏見や差別の被害を受けられている点、被差別部落や外国にルーツのある人々も同じである。
私たちは被害者や弱者に寄り添わずに冷遇した愚かな記録は、歴史を振り返ればいくらでも見つかる。だが、それらの経験から感覚的に(反面教師として)学び、成長できた者はごく僅かであるに違いない。基本的に被害当事者やごく身近で寄り添った者にしか解らない世界がある。少なくとも被害者に対して自分と他人の垣根を超え、例えば今回の新型コロナ被害者に対して心の底から同士として気持ちを重ね合わせられる者はどうしても限られる。その感性が身に付かない点、当事者以外の者はかならずしも悪いわけでもない。むしろ悪くないが、被害感覚を抱いた者だけに宿る強さと優しさがある。
今回の新型コロナ禍において、ほとんどの者は無力で、いくら志が高くても「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ、南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ…」と宮澤賢治がいうように気軽にボランティアで人を助けるために出向くことも出来ない。政治家や医療専門家の力にこれほど頼っきりで、民衆はただただ受身にならざるを得ない経験は人生において滅多にない。だが、今回の新型コロナ禍で一人残らず万人にとって、人生で二度とない成長の機会を与えられていると思えてならない。
日本赤十字社が発表した「新型コロナウィルスの3つの顔をしろう!負のスパイラルを断ち切るために〜」が実に興味深い。もともとは組織内の身内に向けて心構えとして発表された内容だが、万人に分かち合ってもらいたい気持ちもあるに違いない。
その内容によると、ウイルスには3つの感染症があると言う。それは病をもたらすウイルス感染そのものを指す「第1の感染症」と、ウイルスは目に見えず、人びとが抱く不安と恐れを意味する「第2の感染症」、そして不安や恐れから人間が生き延びようとする本能から、人を遠ざけようとするため生まれる他者に対しての嫌悪、偏見、差別は「第三の感染症」である。3つの感染症を放置すれば負のスパイラルとなって人間社会を壊れてしまうと警鐘を鳴らしている。3つの感染症を知り、その上での正しい言動が求められている。
私たちは1人残らずこれら3つの感染症の当事者である。大いにして被害者にも加害者にもなり得る。新型コロナ禍において一部の人間を除いて無力と化している私たちだが、人間として強くて優しい人間として成長する機会は平等に与えられていることだけははっきりしている。「21世紀は人権の世紀」と言われ、多くの人権的な課題解決が求められている。万人が今回のコロナの経験を経て、成長を遂げ迎える「ポスト・コロナ時代」こそ人々が心の底から他者に対しても思いやりをもてる本当の「人権の世紀」の到来となると大いに期待したい。
参照:
新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!~負のスパイラルを断ち切るために~(日本赤十字社)
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