振り袖、サイン入りCD出品など、ネットにおける相互監視社会は果たして悪か?
KNNポール神田です。
この報道のきっかけは、資金繰りに困った販売業者が、メルカリで大量出品し、現金化しようとしているのではないか?というネット上の声から派生してきたのだ。それに反応したメルカリが大量出品を「法人利用」としての利用規約側から対応している。メルカリにとっては、次から次とトラブルある出品が続き、さぞかし困惑していることだろう。利用規約違反の出品者よりも、不正出品が相次ぐメリカリが悪く言われる始末…。
成人式に晴れ着が届かないという最悪な成人式になったという心情を察するがあまり、二次流通における「振り袖」出品にまで影響を与えている。むしろ、被害にあわれた人の怒りなら理解できるが、全く関係のない人までが、勝手に怒りの感情をおさえきれない集団ヒステリーに似た状況を危惧している。さらに、昨今のマスメディアの人々の怒りに油をそそぐような報道で耳目を集め続ける手法に、総ワイドショー化している気がしてならない。また、相談所を開設したところで根本的な事件の解決にもならないし、再度成人式を仕切りなおすとしても、手に入れられなかった振り袖問題は解決しない…。そんな行き所のない負の感情連鎖に、一石を投じてくれたのがキングコングの西野亮廣氏だった。
キングコング西野亮廣氏の『リベンジ成人式』というビジネスモデル
この負の感情連鎖に炎上を恐れない彼の行動とスピード感のある調整能力、そしてPRも見事で、「リベンジ成人式」の成功を祈るポジティブな感情へ変化させたことだ。そして、それを自身のブログで発表するだけで、あっという間に情報は拡散された。何よりもリリースされた企画内容がとてもユニークだ。
実際、西野亮廣氏の全額負担コストは想像し難い。激高かも知れないし、激安かも知れない。しかし、西野氏の呼びかけに、振り袖レンタルとクルージング会社という2社が協力を表明している。なおかつ、ポンとボランティアによる寄付金ではなく、自社の手がけるサービスの売上から必要経費を捻出するというのだ。社会に妙にくすぶり続けるこの問題を、この企画タイミングといい、スタッフの行動力、そして「レターポット」のPRを含めて、三方良し、win win win の関係性で、胸のすく思いをさせてもらった。協力する人たちそれぞれにメリットがあるという関係性の構築が見事といえる。
渡辺直美さんのサイン入りCDはなぜヤフオクに出品されたのか?
渡辺直美さんの2018年1月10日のTweetから
https://twitter.com/watanabe_naomi
どう、考えてみても、渡辺直美さんが自分あての名前が入った「サイン入りCD」をヤフオクに出品するとは考えにくい…。むしろ、渡辺直美さんが、どのようにヤフオクで出品されているのかを知ったかが気になる…。そう、おそらく、それはネット上の声から知ったのだろう。まさかと思ってヤフオクを見てみたら…そして、このようなTweetの反応になったことだろう。
さらにそのTweetの反応は、メディアで増幅されていく…。
もはやネット上の出来事はリアル以上に拡散される。
しかし、「最近家に入ったのは…掃除業者…え?」だとすると、福山雅治さん宅のコンシェルジュ侵入事件のことを想いだす…。プロの業者も疑わなければならない時代だ。しかし、そこで入手した足のつきそうな商品をオークションに出品するだろうか?
ネットにおける相互監視の役割
昨今、ソーシャルメディアでも息苦しくなったという声もよく聞く。ソーシャルメディアの人間関係で疲れるなどとも…。
これは昔から、mixi疲れ twitter疲れ、facebook疲れ、insta疲れと脈々と受け継がれている。ソーシャルメディアの心地よさの反面、心地よさの「演出」に疲れるのだ。
かつて、資金繰りで困った業者は、二束三文の値段でプロのバイヤーに大量に買い取ってもらうことが今までの流れだったが、メルカリ等のプラットフォーマーによって、エンドユーザーに市場価格でダイレクトに販売できる販売ルートを知った。もちろん、「はれのひ」問題とは関係のない別の業者の出品が「法人利用」ということで非出品扱いになるケースもありうる。
一方、社会では、どうしようもない問題を、PR的側面で支援する企画を立ち上げ、「ブログ」で発表するだけでニュースにもなる。またそれを揶揄する記事も登場する。渡辺さんの「サイン入りCDヤフオク出品」に関しても、ネットメディアがあるからこそ、本人の耳に入ったことだ。しかも、本人にとっては部屋にあるはずのものがなくなり、オークションに出品され、「最低」と非難されたので相当なショックだっただろう。そこにも、メディアが自作自演?などと心無い声を届ける。当事者の気持ちを、察することができない人たちが大増殖している。
ネットにおけるウォッチ活動は、いつしか「相互監視」となり、それはいつしか拡散され「衆人環視」の状況となる。そして、「ネットでの話題」はマスメディアがさらに増幅し、当事者の一挙手一投足すべてに目を向けられることに。どれだけ窮屈になったことか…。それは自分自身にも跳ね返り、ネットの世界が息苦しくなるばかりだ。
今まで、マスという大衆を相手にした情報は、一部の情報を持てる機関や組織にしかタッチすることができなかった。芸能界も政界もパイプを持てる「関係者によると」にアクセスできる人だけの特権であった。しかし、芸能人や米国大統領が、自分のメディアを持ち始めると、彼らの生の声がダイレクトにエンドユーザーに到達するようになった。メディアはもう、後追い情報をサマライズする機能しか保持していない。
そして、当事者の彼らも、側近からのフィルタリングされ遮断されていた生の情報源をダイレクトに目にしたり耳にすることとなったのだ。
ソーシャルメディアやプラットフォーマーは、間に介在するモノの機能を果てしなく、限りなく無意味にし続ける。良い部分もあれば悪い部分もある。それがソーシャルメディアという特性だ。
ネットにおける相互監視社会は果たして悪か?
ネガティブに使えば、最悪にネガティブなツールとなる。しかし、「相互監視」をポジティブに使えば、「相互協力」でき、「相互支援」にも繋がる。「クラウドファンディング」のように潜在的な協力者を集うことも可能となった。また、「シェアリングエコノミー」のように所有せずに借りるという江戸の長屋時代の貸し借り文化が21世紀に再定義されている。VRやARという拡張する身体能力も借りられるようになり、人の手を介さずに、AIが判断し、完全自動運転化も目前にと迫る。テクノロジーの進化に我々のかつての慣習や習慣、文化、法律が後追いで追いかける時代は延々と続く…。しかし、許容しながら、それらに慣れていくしかないのだ。
インターネットの商業利用スタートを1995年とすると、2018年の今年でやっとの23年だ。 最初の10年間は20世紀のメディアをずっとトレースし続け、模倣してきたディケイドだった。しかし、2003年のFriendsterというプラットフォームの誕生は、今までの歴史上に存在しなかったSNSという世界を発明した。Friendsterを相互監視していたorkutやmixi、GREE、twitter、facebookらが今まで可視化できなかった知人を情報源とするソーシャルネットワーク網を築いていった。そう、Friendsterの誕生から約15年。我々がソーシャルメディアを、本当に使いこなすには20才の成人式を迎えるくらいの試験期間が必要なのだ。そうiPhoneの歴史からもようやく10年経過したにすぎない…。
我々はまだまだ、子供なのだ…。いろいろとこれからも、学習し、経験し、それを元に軌道修正していかなくてはならない。