熟練者ほど初歩的なミスをする
知識が増え、スキルが上達すると、ミスが減ります。ミスの少なさは精度の高さとも言え、その人の熟練度を示す目安の一つとなります。
しかし、失敗が減ると、潜在的な失敗のリスクが高まる場合があります。その結果、経験を積んだ熟練者が、重要な実践の場面で、初心者のようなミスをすることもあります。私はこれを「弘法にも筆の誤り」ミスと呼んでいます。
例えば、技能五輪では、しばしば、優勝候補と呼ばれるような実力の選手が、「初心者の頃にやったきりで、それ以降1回もやったことがないミス」や「普段の自分ならまずしないような初歩的なミス」で減点され、力を発揮できずに終わります。
なぜそうなるのか、いくつかの可能性がありますが、熟練しミスが減った結果、ミスを制御するスキルの熟練度が低下することと関係があるのでは、と私は考えています。
こうしたことに関連して、原田悦子・篠原一光編「注意と安全」(以下文献)では様々なケースが紹介されています。
例えば、リスクホメオスタシス理論によれば、「人はリスクが低下したと認知すれば、よりリスキーな方向に行動を変化させ、リスクが増加したと認知すれば安全な方向に行動を変化させる」(p219)とされます。
この知見を踏まえると、熟練者は上達によってミスのリスクが減ったことで、無意識にリスキーな行動を取っている可能性があると考えられます。
熟練化とミス対処経験の減少
初心者の段階では、速さと正確さを両立することは難しいものです。速くしようとしてやり忘れたり、知識や経験が少ないため間違えたりします。そういう経験を経て、ミスの発生率を下げるための予防スキルや、ミスを発見し、原因を分析し修復するスキルを習得します。
熟練化すると、これらのミス制御スキルの効果もあり、ミスの発生率は低下します。さらに熟練化すると、意識しなくてもほとんどミスをしなくなっていきます。これ自体は好ましいことです。しかし、ミスの予防や発見・分析・修復する機会も、同時に減っていることになります。
つまり、気づかないところでミス制御スキルの熟練度は低下するのです。
文献には、ミスを見逃す様々なバイアスが紹介されています。例えば、「自分がミスをするはずがない」といった思い込みは確証バイアスと呼ばれ、ミスの見逃しにつながります(p228)。
また、「チェックの行為が自動化されると意識されないため(Schneider & Shiffrin, 1977)、チェックの意味がなくなってしまう」(p245)ため、ダブルチェックやトリプルチェックをしても有効ではないことも知られています。
重要な実践の場面がはらむ些細な違い
それでも、普段はミスが起こらず、適切に知識やスキルを使えていれば問題ないでしょう。
ただ、重要な実践の場面では問題が起こる可能性があります。
重要な実践の場面では、周囲からの高い期待や物理的環境、時間などの面で制約が存在し、普段技能を発揮している場面と条件が異なります。例えば、代えのきかない部材で作業をする、いつもは20分程度でやるタスクを15分で終えなければいけないなどです。
こうした場面では、ある種のリセットが起こり、その人が「ミスをしない」条件が一部、または全部崩れます。それを理解して初心者の頃に実践していたようなミス制御のスキルを活用する人もいますが、そうした違いに気づかず、あるいは確証バイアスなどの影響で過小評価し、普段と同程度にしかミスの制御に注意を払わずタスクを進める人もいます。
ところが、ミスが許されないような状況でいつもよりも慎重にタスクをこなすと、普段と作業フローが若干変わります。そして普段は考えないようなところでふと立ち止まり、「あれ、次なんだっけ? 」と、突然エアポケットに入ったように思考が止まることがあります。こうした些細な違いが重なった結果、冒頭で述べたような「弘法にも筆の誤り」ミスが起こるのです。
どんな対策ができるか
熟練に伴いミスの発生率が減れば、ミスの制御に注意を配る割合が減り、それらの注意資源をより精度を高める作業に割り振れます。したがって、ミスの減少は上達の必要条件です。しかし、重要な実践の場面では、普段ミスをしないことがかえって「弘法にも筆の誤り」ミスの発生率を高める側面があります。
文献では、「事故の少なさから職場の安全水準を事故率などの数値で把握することは現在難しくなっている。そこで近年、事業者みずからが事故やトラブルにいたる可能性のある顕在的、潜在的な危険要因を特定し、除去する仕組みを文書で手順化し、継続的に改善を図るという労働安全衛生マネジメントシステムが積極的に導入されている」(p223)と述べています。
これはたとえるなら、防災グッズを定期的に確認するようなものです。ミス発生時の対処手順を定期的に振り返り、リハーサルします。それに加え、タスクの条件が変わる場面や、達成すべき水準が高い場面で作業することがわかったら、初心者の頃によくしたミスを振り返り、対処をリハーサルすると、ミスの制御スキルがチューンアップされ、実践に役立ちます。
熟練化の目標は、ミスをしないことではなく、たとえ時間や環境、使えるものなど資源に制限があっても、求められるものやその人が表現したいことを、可能な限り高い品質で完成させることにあると思います。
熟練化のプロセスでミスが減ることは重要な条件ですが、重要な実践場面では、ミスが減ったことで生まれるリスクにも留意する必要があるのです。
引用文献
原田悦子, & 篠原一光. (2011). 現代の認知心理学 4―注意と安全. 日本認知心理学会 (監修), 北大路書房, 京都.